ある朝、ファンデーションのボトルを手に取って、そのまま棚に戻した。特別な決意があったわけじゃない。ただ、塗る気にならなかった。それだけのことだった。でもその日の外出から帰ってきたとき、鏡の前に立って気づいたことがある。「あ、顔が呼吸してる」って。それがすべての始まりだった。
ヘアメイクアーティストが、ファンデーションをやめるということ
15年この仕事をしていて、ファンデーションは「塗るもの」だと思い込んでいた。疑う余地すらなかった。ヘアメイクアーティストとして現場に入るとき、ファンデーションはベースメイクの核心で、そこから表情を作っていくのが仕事だから。撮影の現場でも、ブライダルでも、芸能の仕事でも、ベースをきれいに整えることが「プロの仕事」の出発点だと信じていた。
でも、それはあくまで「誰かの顔に塗る」話だったのかもしれない。
自分の顔に塗ることとは、全然別の話だったんだと今は思う。
振り返ると、私がファンデーションを塗り始めたのは中学生のとき。当時のコンプレックスはニキビと色むらで、肌を「隠す」ためにベースメイクを覚えた。それがそのまま習慣になって、20代・30代を通じてずっと続いた。化粧をしない日は「サボった日」という感覚があったし、すっぴんで人に会うことへの抵抗感は根深かった。鏡の前に立って「これでよし」とファンデーションで仕上げることが、外の世界へ出るための儀式みたいになっていた。
ヘアメイクアーティストという職業柄、人よりも「きちんとしていなければ」というプレッシャーもあった。お客様のメイクを担当する人間が、ヨレたベースメイクでいるわけにはいかない。それはプロとしての矜持でもあったし、正直なところ、見栄でもあった。
だから、あの朝にボトルを棚に戻した行為は、その全部をひっくり返す出来事だった。大げさに聞こえるかもしれないけど、私にとってそれくらい大きなことだった。
「隠す」から始まったベースメイクの歴史
私が使っていたファンデーションの歴史を、ちょっと棚卸しさせてほしい。
中学・高校時代は、ドラッグストアで買える安いリキッドファンデーション。当時は使い方もよくわからなくて、首と顔の色が全然合ってなかった。でもとにかく「隠れればいい」だった。ニキビを、赤みを、毛穴を、とにかく隠すことだけが目的だった。
専門学校でメイクを学んで、技術が身についてからは「きれいに塗ること」が目的になった。ムラなくのばして、ハイライトとシェードで立体感を出して、フィックスミストで仕上げて。技術としては洗練されていったけど、結局やっていることは「素顔を覆うこと」で変わらなかった。
30代に入って肌の調子が変わり始めた。ニキビは落ち着いてきたけど、今度は乾燥・くすみ・小ジワという新たな悩みが出てきた。ファンデーションの種類をアップデートして、より保湿力の高いもの、カバー力はあるけど重くないもの、を探し続けた。かなりの量を試した。高価なものも、プチプラも、百貨店のコスメカウンターで丁寧に選んでもらったものも。
でも気づいたら、「今日の肌に合うファンデーションを探している」のではなくて、「ファンデーションなしでは外に出られない自分」を維持するために、延々とものを探していた。それって、呪縛じゃないか。
ある撮影の合間に、カメラマンさんが言った言葉がある。「レイラさんって、素顔どんな感じなんですか?」何気ない質問だった。でも私は即答できなかった。「素顔」がどんな顔かを、自分でも長い間ちゃんと見ていなかったことに気づいてしまったから。
肌に乗せていたのは、粉じゃなくて「不安」だった
西洋占星術の観点から言うと、「外見」は第1ハウスと関係が深い。第1ハウスは自己イメージ、他者への最初の印象、「どう見られたいか」という意識の層に関わる。タロットで言えば、鎧をまとった人物のカードが示すような——外側を固めることで内側を守ろうとする、防衛の象徴。
私のベースメイクは、まさにその「鎧」だった。きれいに仕上げることで、評価されない恐れを遠ざけようとしていた。ヘアメイクアーティストとして「見る目があるはずの人間」として見られることへの緊張感を、厚いベースメイクで押さえつけようとしていた。
それはもう、美容の話じゃない。自己防衛の話だ。
鑑定の現場でも、同じ構造のご相談を何度も受けてきた。「人前では完璧にしていないといけない気がして、疲れました」というやつ。私はそれに共感しながら、自分自身も同じことをやっていたわけだ。笑えない。
でも、気づきというのは面白いもので、タロットカードを読んでいるときにふと降りてくることがある。ある日の自分への内観セッション——私は占い師だから、自分自身のためにカードを引くことがある——で、出てきたのは「星のカード(THE STAR)」だった。裸のままで水辺に立つ女性。鎧も、装飾も、何もまとわない状態で、それでも光を放っている。
そのカードを見て、なんとなく泣きたくなった。
ファンデーションを塗らなかった朝は、その内観セッションの数週間後だった。意図していたわけじゃないけど、どこかで「手放す準備」ができていたのかもしれない。
やめてみて初めてわかった、肌の「声」
最初の数日は、正直落ち着かなかった。鏡を見るたびに「あ、くすんでる」「毛穴が気になる」「赤みが目立つ」と思った。でも同時に、不思議なことも起きた。
午後になっても、崩れを気にしなくてよくなった。
これが想像以上に、楽だった。
ファンデーションを塗っていた頃は、外出中に何度も鏡を確認していた。特に食後。口周りがヨレていないか、Tゾーンが浮いていないか、マスクの内側でこすれていないか。無意識にチェックしていた行動が、なくなった。それだけで、頭の中の「占有率」がかなり下がった。
一週間ほど経ったころ、スキンケアだけで出かけた状態で旧友に会った。会うなり「なんか、顔が明るくなった?」と言われた。ファンデーションをやめたから、とは言わなかった。ただ「最近、変えたことがあって」とだけ答えた。その人は「なんか、肌が出てきてる感じがする」と言ってくれた。
「出てきてる」という表現が、面白かった。そう、ファンデーションは隠すだけじゃなくて、「押さえつけていた」のかもしれない。肌のトーンも、肌の質感も、肌が発するなにかを。
同時に、スキンケアへの向き合い方が変わった。ファンデーションという「蓋」がなくなったとき、肌の状態がダイレクトに見えるようになる。乾燥していたら乾燥として出る。血色が悪ければそれがそのまま顔に出る。隠せないから、向き合わざるを得ない。
これが最初は怖かったけど、だんだん「対話」になっていった。肌が何かを訴えているとき、それが見えるようになった。今日は水分が足りない、今日は睡眠不足で毛細血管が出てきてる、今日はホルモンバランスが乱れているのかも——そういう「肌の声」が、ようやく聞こえるようになった気がした。
「プロがすっぴんで仕事するの?」という視線について
正直に書く。
ヘアメイクアーティストがベースメイクをしないことへの「他者の目」は、存在する。
これは業界あるある的な話で、「メイクのプロがすっぴんってどうなの」という暗黙の圧力は、ゼロじゃない。直接言われたことは一度もないけど、「言われそうな空気」を自分で感じていたのは事実だ。
でも、あるとき気づいた。「その視線、実在するの?」って。
実際に周囲から言われたわけじゃない。私が勝手に「言われるかもしれない」と思って先回りして防衛していただけだ。まさに、タロットの鎧の話そのものだ。幻の敵と戦って疲弊していた。
お客様がアトリエヴァリーに来てくれるのは、私の顔のベースメイクを見に来るわけじゃない。鑑定の精度のため、メイクの提案力のため、15年のキャリアの中で積み重ねてきたものを信頼してくれているから来てくれる。私の顔のカバー力は、サービスの品質と何も関係がない。
それが、頭でわかっていても体に染み付いていた恐れだった。
地上波の出演があった日でも、収録前のメイクはヘアメイクさんがしっかりやってくれる。私がプライベートでどんな状態でいるかは、そこには関係ない。でも長いあいだ、「常に整えていなければプロじゃない」という思い込みが、24時間365日、私の顔に重くのっかっていた。
ファンデーションをやめることは、その重さを下ろすことでもあった。
「美しさ」の定義を、自分で更新した日
美容の哲学として、これは書き残しておきたい。
私たちは「美しさ」の定義を、自分で作っているようで、実はほとんど外から受け取っている。雑誌のビフォーアフター、SNSのフィルタリングされた肌、コスメブランドが「理想」として提示するイメージ——そういうものが積み重なって、「これが美しいスタンダード」という基準が無意識に作られていく。
ファンデーションで均一に整えたベースメイクは、その「スタンダード」のど真ん中にある。赤みも毛穴もくすみも隠して、なめらかで均質な肌面を作ること。それが「整えること」「きれいにすること」とほぼ同義で使われてきた。
でも実際問題として、生身の人間の肌はそもそも均質じゃない。毛穴はある。色むらもある。日によって赤みが出たり、くすんだりする。それは「欠点」なのか?
ヘアメイクアーティストとして長年人の肌を見てきた立場で言うと、整いすぎたベースメイクの肌よりも、少し素が見える肌のほうが「生きている感じ」がする。人を撮影するとき、完璧に塗り固めた顔よりも、少し素肌が透けている顔のほうが写真に「気」が宿る、という感覚が確かにある。
カメラマンにもそういう感覚を持っている人は多い。「肌が死んでる」という表現を現場で聞いたことがある人、いないだろうか。ファンデーションの塗りすぎで、肌が硬く不自然に見える状態のことを指す言葉だ。
「美しさ」を外から受け取るのをやめて、自分の内側から定義し直すことは、頭でわかっていても実際にはかなり難しい。それはもう、15年間のメイクの習慣と同時に、「他者から評価されたい」という欲望の層にまで手を入れることになるから。
私がその更新を少し進められたのは、ファンデーションのボトルを棚に戻したあの朝の、なんでもない選択からだった。
スキンケアに全振りして気づいたこと
ファンデーションをやめてから、スキンケアにかける時間と意識が変わった。
以前は「いいベースを作るためのスキンケア」だった。ファンデーションをきれいに乗せるための下地作り、という位置づけ。でも今は「肌そのものを育てるためのスキンケア」になった。目的地が変わった。
変えたことをいくつか書く。
まず、洗顔をシンプルにした。以前は「毛穴汚れをしっかり落とす」という名目で、けっこう洗浄力の強いものを使っていた。でもファンデーションという「落とすべきもの」がなくなると、そこまで強くなくていいことに気づいた。肌のpHバランスを必要以上に崩さない穏やかな洗顔に変えた。最初の一週間は少しべたつく感じがあったけど、肌が「過剰な皮脂分泌」をやめてきたのかな、というタイミングで安定してきた。
次に、化粧水を変えた。いままでは成分表示を見て「美白」「毛穴ケア」といった機能優先で選んでいたけど、今は「肌が好きな成分を与えている感覚があるかどうか」で選ぶようになった。これは感覚的な話で、数値で説明するのが難しいけど、肌が「ああ、それ欲しかった」と言ってる感じ、という表現が一番近い。
あとは日焼け止め。ファンデーションをやめたことで、紫外線対策が明確に「日焼け止め一択」になった。以前はSPF入りのファンデーションを使っていたから「これで日焼け止め兼用できてる」という感覚があったけど、それはやはり甘かった。今は肌にやさしいミネラルUVを丁寧に塗って、それだけ。シンプルになると、逆にちゃんとやれている感が出てくるものだ。
「素肌に全振り」してわかったのは、肌が意外と持っている自己修復力を、私は長い間ファンデーションという名の干渉で邪魔していたかもしれない、ということだ。
ポイントメイクへの愛が、深くなった
ファンデーションをやめたからといって、メイクをやめたわけじゃない。これは大事なことなので、はっきり書いておく。
眉は描く。アイラインは入れる。リップは今まで以上に楽しんでいる。チークも使う。ファンデーションという「全体を均す土台」がなくなったことで、ポイントメイクが「主役」になった感覚がある。
特に、リップへの愛着が格段に深まった。
以前はベースメイクとのバランスを考えてリップを選んでいたけど、今は「今日の自分が何色を纏いたいか」だけで選んでいる。ベースが均質じゃない分、リップが顔の中でより鮮明に映える。真っ赤なリップを「今日は素顔に赤リップ一本で行く」という選択ができる。これがすごく自由で、すごく楽しい。
アイメイクも変わった。以前は「ファンデーションを含めた顔全体としての完成形」を考えていたけど、今は目元だけで完結するバランスを考える。ベースが引き算されているから、アイメイクはむしろ丁寧に、でもシンプルに。このミニマルな美意識が、自分の好みとかなり合っていることに気づいた。
ヘアメイクアーティストとしての視点で言うと、ベースメイクに時間をかけてきた人が「ベースを抜く」と、最初はポイントメイクが浮いて見えると感じることが多い。でも少しずつ「素肌とポイントメイクのバランス」に慣れてくると、それが自分の顔に馴染んでくる。それはメイクの「なじみ」じゃなくて、「自分との馴染み」なんだと思う。
鏡の前で「今日はこれでいい」と思えるようになるまで、私は2か月かかった。でもその2か月は、15年分の「他者評価軸」を少しずつ手放していく時間でもあった。
解放感の正体は、「見られること」への恐れを下ろしたこと
あの朝の「解放感」の正体が、今はわかる。
ファンデーションを塗らないことへの解放感じゃなかった。
「見られること」への恐れを少しだけ手放せた、その軽さだった。
人は誰かに見られることを意識すると、「どう見られるか」の防衛が始まる。それ自体は自然なことで、社会的な生き物として当たり前の機能だ。でもその防衛が慢性化すると、外に出るたびに「戦装備」を整えなければ動けない状態になる。私にとってのファンデーションは、その戦装備の一部だった。
見られることが怖い。素の自分が評価されることが怖い。だから覆う。だから均す。だから整える。その回路は、美容の行為に見えて、実は「不安の管理」だった。
占星術的に言えば、外惑星——特に土星——が強く働いているときに人はよく「外側を固めることで内側を守ろうとする」動きをする。私のチャートの話をここでするのは違う気もするけど、長年その動きをしてきたのは確かだ。
タロットを仕事にしていると、「怖れを手放す」という言葉をよく使う。お客様に対して、カードを通じてその言葉を伝えることは多い。でも自分自身に対してそれをやることが、いちばん難しい。
ファンデーションのボトルを棚に戻したとき、私は恐れを手放したわけじゃない。ただ、怖いまま外に出た。それだけだ。
でも「怖いまま出た」その日が、積み重なることで何かが変わっていった。
秋の夕方、アトリエを出て近所のカフェに寄ったとき、偶然知り合いのスタイリストさんに会った。「あれ、なんかレイラさん変わった? なんか……若返った?」と言ってくれた。ファンデーションをやめた話をすると、「え、それで? じゃあこれ素肌なの?」と少し驚いた様子だったけど、続けてこう言った。「なんか、その人っぽい」と。
「その人っぽい」。
それが、一番欲しかった言葉だったのかもしれない、と後から気づいた。
あなたの「塗らなかった朝」は、いつ来るだろう
これは「ファンデーションをやめましょう」という話じゃない。最初からそういうつもりで書いていない。
ファンデーションが好きで、塗ることが楽しい人は、塗ればいい。メイクが自分表現の手段である人は、目一杯使えばいい。それは何も間違っていない。私自身、お客様へのメイクでは今もファンデーションを使う。それがその人の美しさを引き出す手段になるなら、使うことがプロとしての仕事だ。
ただ、問いかけてみてほしいことがある。
「自分のために塗っているか、それとも誰かの目のために塗っているか」。
この問いは、ファンデーションの話を超えている。日々の行動の中で、自分のためにしていることと、他者の評価を管理するためにしていることが、どのくらいの割合で混在しているか。それを一度棚卸しする機会として、ファンデーションというわかりやすい素材を使っているにすぎない。
美容は哲学だと私は思っている。肌に何を乗せるかは、自分とどう向き合うかの問題だ。隠すのか、整えるのか、磨くのか、手放すのか。どの選択も間違いじゃないけど、「なぜその選択をしているか」を知っているかどうかで、意味がまるで変わってくる。
あの朝、ボトルを棚に戻して外に出た私は、特別な決意もなく、ただちょっと怠惰なだけで、でもそれがなにかの扉を開けた。扉の向こうに「解放感」があったのは、もともとそこに解放されるべき何かがあったからだ。
鏡の前でファンデーションのボトルを手に取ったとき、あなたは何を持とうとしているだろう。
占い師として、「素顔を晒す」ことの意味
鑑定の仕事をしていると、「見る」と「見られる」が常に同時に起きている。
お客様の星図を読み、カードを展開し、その人の内側に流れているものを言語化していく。私はそこで「見る側」に立っているけれど、同時に、お客様からも見られている。信頼できる人物かどうか、この人に話していいかどうか、そういう視線を向けられながら鑑定をしている。
だから長い間、「見られること」に対して無意識に緊張していた。ヘアメイクアーティストとしての外見を整えることは、その緊張を和らげるための準備行為だった。完璧に整えた顔で座ることで、「この人はちゃんとしている」という印象を先に置いておく。そうすることで、鑑定の中身に集中してもらえると思っていた。
でも、ファンデーションをやめてから数か月後のある鑑定で、少し違うことが起きた。
その日、お客様は開口一番こう言った。「なんか今日、話しやすいです。いつもより近い感じがする」。鑑定の内容は変わっていない。座る場所も、使うカードも、話す順序も同じだ。変わったのは、私の顔のベースメイクだけ。
もちろん、それだけが原因じゃないかもしれない。でも「近い感じ」という言葉は、何かを示唆していると思った。完璧に整えられた「プロの顔」よりも、少し素が見える顔のほうが、人は「この人も人間なんだ」と感じやすいのかもしれない。鎧を脱いだ人間には、近づきやすい。それは鑑定という、人の深いところに触れる仕事においては、むしろ必要なことだったのかもしれない。
「見せること」と「晒すこと」は違う。意図して見せるのは演出だけど、素が漏れ出るのは誠実さだ。その違いを、ファンデーションのない顔が教えてくれた。
季節が変わるように、美意識も更新されていい
去年の秋に始めたこの「ノーファンデ生活」は、気がついたら一年近く続いている。
真夏の強い日差しの下でも、冬の乾燥した空気の中でも、素肌で過ごした。最初は季節ごとに「やっぱり今日はファンデーション塗ろうかな」と揺らぐ日もあった。体調が悪くて顔色が死んでいる日、大事な打ち合わせの前、久しぶりに会う人と会う日。そういうタイミングで、ボトルに手が伸びることはあった。
でも不思議なもので、手が伸びるたびに「なんで今塗ろうとしてるんだろう」と立ち止まるようになった。体調が悪いなら、ファンデーションで隠すより休むほうが先じゃないか。大事な打ち合わせなら、顔のベースより提案の中身を磨くべきじゃないか。久しぶりの人に会うなら、その人は私の毛穴を見に来るわけじゃないじゃないか。
そうやって一つひとつ「なぜ塗ろうとしているか」を確認していくと、「やっぱり塗らなくていいや」という結論になることがほとんどだった。
美意識は、固定するものじゃないと思う。
20代のときに「正しい」と思っていたメイクが、30代には違和感になることがある。30代で信じていた「美しさの基準」が、40代には窮屈になることもある。それは退化じゃなくて、更新だ。季節が変わるたびに着るものを変えるように、年齢と経験を重ねるたびに、自分の美意識も新しいものに入れ替えていっていい。
私が怖かったのは、その更新をすることで「これまでの自分を否定することになる」という感覚だったかもしれない。15年間ファンデーションを塗り続けていた私を、否定することになるんじゃないかという。
でも、違う。過去の私は過去の私なりの理由で、その選択をしていた。それは正しかった。ただ今は、別の選択が自分に合っている。それだけのことだ。過去を否定しなくても、今を更新することはできる。
冬の朝、窓から差し込む低い角度の光の中で、スキンケアだけを終えた自分の顔を鏡で見る。くすみも、うっすらした目の下のクマも、乾燥で少し荒れた小鼻の横も、全部見える。でも光の中で、その凸凹が確かに立体感を作っていて、「生きてる顔だな」と思う。
美しいかどうかという問いより先に、「これが私の顔だ」という感覚が来る。その順番が変わったことが、一番大きな変化かもしれない。
「整えること」と「あるがままでいること」の間で
ここまで読んで、「でも、ちゃんとしていたい気持ちも捨てられない」と思った人がいるとしたら、その気持ちは正しいと伝えたい。
私はファンデーションをやめたけど、「整えること」を手放したわけじゃない。眉はきちんと整えるし、スキンケアは以前よりずっと丁寧になった。ネイルも好きだし、髪のケアも怠らない。「あるがまま」を免罪符にして、何もしなくなったわけじゃない。
「整えること」と「あるがままでいること」は、対立しない。その両方を、自分の中で同時に持てるようになることが、成熟した美意識だと私は思っている。
整えるのは、自分のためだ。気持ちが上がるから、好きだから、この色が自分を鼓舞してくれるから。そういう動機で整えるとき、メイクは喜びになる。
一方で、隠すためだけに整えるとき、それは消耗になる。他者の評価を先回りして管理するためだけに時間とお金と神経を使うとき、美容は疲労になる。
同じ「メイクをする」行為でも、動機によってまったく違うものになる。だからこそ、「なぜやるか」を定期的に点検することが必要だ。それは美容の話であり、同時に、自分がどこに立っているかの確認でもある。
アトリエヴァリーに来てくれるお客様の中にも、「メイクをやめたら楽になった」という人と、「好きなメイクができるようになったら自信がついた」という人が、両方いる。どちらが正解でもない。その人が、自分の動機に正直でいられているかどうか。それだけが、問題の核心だ。
私がファンデーションのボトルを棚に戻した日から始まったのは、「塗らない生活」じゃなくて、「動機を問い直す習慣」だったのかもしれない。鏡の前で何かを手に取るたびに、「これは私が選んでいるか、それとも誰かの目に選ばされているか」と、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
その一瞬の問いが、積み重なって、少しずつ自分の輪郭をくっきりさせていく。ファンデーションで均すのとは逆の方向に、だ。
