神様は、たぶんいない。でも何かはいる。

「神様を信じますか?」と聞かれたとき、私はいつも少し間を置く。
信じる、とも言えない。信じない、とも言い切れない。
15年間、タロットカードをめくり、星の配置を読み、霊的な感覚と呼ばれるものと向き合ってきた人間が、「神様はいると思う?」という問いに対して、即答できないというのは、ある意味で職業病かもしれない。でも、この「間」こそが、私が今日お伝えしたいことのすべてに繋がっている。

目次

「神様」という言葉が、ズレている気がする

まず前提として確認したいのだけれど、「神様」という言葉自体が、かなりの幅を持っていると思う。
キリスト教的な全知全能の創造主のことを指す人もいれば、八百万の神々の総体のことを思い浮かべる人もいる。氏神様のことを「神様」と呼ぶ人もいれば、「宇宙の法則」や「大いなる存在」のことを神様と言う人もいる。
占星術の世界でよく出てくる「天」という概念も、スピリチュアルな文脈でいう「ソース」も、仏教的な「真如」も、全部ひっくるめて「神様」という一語で処理されてしまうことが多い。

そう考えると、「神様はいますか?」という質問は、実はかなり乱暴な問いかけなんです。「日本食は好きですか?」と聞くくらい、範囲が広い。寿司のことを聞いているのか、納豆のことを聞いているのか、奈良漬けのことを聞いているのか、ぜんぜん違う話になってくる。

だから私は、「神様」という言葉をいったん解体することから始めたい。
宗教的権威としての神。人格を持つ存在としての神。自然現象の背後にある意志としての神。人間の集合的無意識が生み出した象徴としての神。あるいは、私たち自身の内側にある「何か大きなもの」としての神。

これを全部同じ「神様」で括るのは、やっぱり無理がある。
だから私は今日、「神様はいない」という前提と、「でも何かはいる」という体感の両方を、丁寧にほぐしていこうと思う。
どちらかが正しいという話をしたいわけじゃない。この二つが、実は矛盾していないということを、私自身の体験を通してお伝えできたらと思っている。

私が「神様はたぶんいない」と思う理由

占い師が言うのも変な話だけれど、私は「人格を持った全知全能の神様」という存在に対して、素直に「いる」とは言えない。
その理由は、いくつかある。

まず、世界のあり方が、あまりにも「神様がいるようには見えない」からだ。
これは懐疑論でも悲観論でもなくて、ただの観察の話。
善良な人が理不尽に苦しむ。子どもが虐待される。無実の人が死ぬ。そういうことが、毎日世界中で起きている。
「それも神の試練だ」とか「神の意志は人知を超える」という説明は、構造的に何でも正当化できてしまうので、私には論理として機能しないと感じる。

以前、鑑定で出会ったある女性のことを思い出す。
彼女は毎日神棚に手を合わせ、神社に通い、誰よりも信心深い人だった。それでも、夫のDVは止まらなかった。子どもは病気になった。仕事も続かなかった。「こんなに祈っているのに、なぜですか」と泣きながら言う声が、今も耳に残っている。
私は彼女に「神様は試練を与えているんですよ」とは言わなかった。そんな言葉で慰めることが、私にはできなかった。

神様が「全知全能で、個別の人間に対して愛を持って関わっている存在」であるなら、あの女性の祈りはなぜ届かなかったのか。
私は「全知全能で、個別に関与する人格神」という概念そのものに、どうしても同意できない。

もう一つの理由は、宗教的な神様の概念が、文化・時代・地域によってあまりにも異なりすぎること。
人間が作ってきた「神様の姿」は、その文化の投影でしかないと思う部分がある。嫉妬する神、怒る神、裁く神、赦す神。それは人間の感情そのものじゃないか、と。

だから私は、「人格を持ち、個別の祈りに応答し、善悪を裁く全知全能の神様」という意味においては、「たぶんいない」という立場を取る。

でも「何か」は、確実にある

「じゃあ占い師なのに、霊的なものを信じていないの?」と思う方もいるかもしれない。
違う。むしろ逆。
私は「何か」の存在を、骨の髄まで信じている。それは「人格神」ではないかもしれないけれど、確実に「ある」と感じている。

タロットカードを引くとき、私はある種の「気配」を感じることがある。
正確には、無作為に見えるカードの並びが、あまりにもその人の状況を的確に示しているとき。統計や確率や心理的投影だけでは説明しきれない「何か」が、そこに働いているという感覚。

たとえば、先日もこんなことがあった。
鑑定の予約を入れてくれた方が来られる直前、私はテーブルのうえでカードをシャッフルしていた。その方とはまだ何も話していない。名前しか知らない。でも突然、「塔」のカードが床に落ちた。スルッと、まるで自分から飛び出したように。
その方は、その日の鑑定で「今の会社、もう続けられないかもしれない」という話を切り出した。
こういうことが、15年やっていると、本当に珍しくない頻度で起きる。

これを「偶然」で片付けるのは、私には誠実じゃないと思う。でも「神様が教えてくれた」とも言いたくない。
じゃあ、何なのか。

私が今のところ一番しっくりきているのは、「意識と物質の間にある、言語化できない作用」という言い方だ。
物理的に存在するわけじゃないかもしれない。でも、無いとも言えない。
空気は見えないけれどある。重力は見えないけれどある。それと同じように、「意識と場を繋ぐ何らかの作用」が存在するという感覚。

「何か」は、私に語りかけてくるわけじゃない。指示を出してくるわけでもない。でも、流れのようなものはある。引力のようなものはある。タイミングのようなものはある。
それを「何か」と呼ぶしかない今の私が、それでも確信していること——それは、この世界は「ただの物質と偶然の集合体」じゃないということだ。

西洋占星術が教えてくれた「秩序」という視点

占星術を深く学んでいくと、あることに気づく。
星の動きというのは、恐ろしいほど精密に、地上の出来事と呼応している。

たとえば、土星が自分の出生図の重要な場所を通過するとき、多くの場合、人生の大きな転換や試練が重なる。木星が何かに触れたとき、機会や拡大が訪れることが多い。冥王星が変革をもたらす時期、その人の深いレベルでの何かが壊れ、生まれ変わっていく。

これは「星が命令している」という話ではない。
占星術の本質は、宇宙の運行と人間の内的リズムが、何らかの対応関係にあるという観察から成り立っている。
「As above, so below(上にある通り、下にも)」というヘルメス哲学の有名な一節があるけれど、これが占星術の根底にある考え方だと私は思っている。

宇宙は混沌じゃない。そこには法則がある。秩序がある。リズムがある。
土星は約29.5年で太陽の周りを一周する。木星は約12年。冥王星は248年かけて一周する。これは無秩序ではなく、精密な秩序だ。

その秩序の中に、「何かの意図」を感じるかどうかは人それぞれだけれど、私は感じる。
「意図」と呼ぶのが正確かどうかはわからない。「方向性」とも言えるし、「法則の精緻さ」とも言えるかもしれない。でも、この宇宙の構造が「ただの偶然の産物」だとは、どうしても思えない。

理系的な人から見れば、「それは物理法則があるだけで、意図じゃない」と言うかもしれない。
そうかもしれない。
でも、物理法則そのものが「なぜ存在するのか」という問いには、まだ誰も答えられていない。
なぜ数学は宇宙を記述できるのか。なぜ素粒子は規則的に振る舞うのか。なぜ宇宙定数はこれほど精密に「生命が生まれる」値になっているのか。

このあたりの問いの前で、私は静かに、「何かはいる」という感覚に戻ってくる。

「祈り」の話をしよう——届く祈りと届かない祈りの違い

私は神社に行く。お寺にも行く。教会の中の静けさも好きだ。
信仰を持っている、というよりは、「聖域」という概念を体感的に理解しているという感じに近い。

長年、さまざまな場所で手を合わせてきて、気づいたことがある。
「届く祈り」と「届かない祈り」は、内容ではなく、「状態」が違う。

これは少し慎重に説明したい話だけれど、私が経験的に感じていること。
「合格させてください」「彼を振り向かせてください」「お金をください」という祈りは、どこか「取引」の感覚がある。何かを要求している。何かを外側に求めている。
それが悪いということではない。困っているとき、苦しいとき、何かに縋りたいのは当たり前の人間の感情だから。

でも、私が「届いた」と感じた経験は、いつも少し違う形をしていた。
アトリエヴァリーを立ち上げた頃、経営的にも精神的にも追い詰められた時期があった。
ある夜、ひどく疲れて、近所の小さな神社に行った。
「どうにかしてください」と言おうとしたんだけれど、なぜか言葉が出てこなかった。
ただ、しばらくそこに立って、冬の夜の空気を吸っていた。
境内には誰もいなかった。風が葉を揺らす音だけがしていた。
そのとき、「ああ、私はまだここにいる」という、ただそれだけの感覚があった。

何かに答えてもらったわけじゃない。問題が解決したわけでもない。
でも、あの夜の感覚を「ただの心理的効果」とは言いたくない。

祈りが「届く」とき、それは多分、自分が「何か」とつながる状態になっているときだと私は思っている。
取引じゃなくて、接触。要求じゃなくて、共鳴。
そして「何か」は、あなたの願いを叶える係じゃない。でも、あなたが開いているとき、そこにいる。
そういう存在なんじゃないかと、今の私は考えている。

スピリチュアルの世界で「神様」が安易に語られすぎている問題

これは、業界の内側にいる人間として、ちゃんと言っておきたいことだ。

スピリチュアルの世界では、「神様があなたを導いています」「宇宙があなたに必要なものを送ってきます」「引き寄せの法則で願えば叶います」という言葉が、かなり軽い質量で使われている。

私はこういう言い回しが嫌いではない。一つの比喩として使うなら構わない。
でも、それを文字通りに信じて、自分の判断を「神様に任せた」と放棄したり、「引き寄せたから自己責任」という論理で傷ついた人を切り捨てたりするのは、違うと思う。

以前、ある鑑定で出会った方は、「神様が彼を送ってきてくれたはずだ」と確信して、どう考えても危ういパートナーとの関係を続けていた。
「でも彼との出会いって、偶然じゃない気がして。神様のお導きだと思うんです」と言う。
その彼は、彼女のお金を使い込み、別の女性ともつきあっていた。

神様を使ってコントロールしてくる人がいる。
神様を言い訳に使って判断を放棄する人がいる。
神様の名のもとに、自分の欲望を正当化する人がいる。

これは昔も今も変わらない人間の習性だけれど、スピリチュアルの世界ではそれが特に起きやすい土壌がある。

「何か」はいる、と私は思う。でも「何か」は、あなたの恋愛を応援しているわけでも、あなたのビジネスの成功を保証しているわけでも、あなたの代わりに生きているわけでもない。

「何か」は、あなたが深く、誠実に、自分の人生と向き合おうとするとき、何らかの形で呼応する。それだけだと私は思っている。
神様を召使いのように扱っていると、やがてそれは「ただの思い込み」に変わる。
そして本物の「何か」から、どんどん遠ざかっていく。

地上波に出て、企業顧問をして、それでも「何か」と向き合い続ける理由

私はタロット占い師・西洋占星術師という肩書きで、地上波のテレビにも出てきたし、企業の顧問もしてきた。
15年間、何千人もの人の人生の相談に乗ってきた。

その中で、一つ確信していることがある。
「何か」は、信じていない人のところにも来る。

ものすごく現実主義的なビジネスマンが、「自分でも信じられないんですが」と前置きしながら、「あのときの選択が不思議なくらい正解で」という話をする。
「スピリチュアルとか興味ないんですけど」と言いながら、「あのとき踏み止まった理由が自分でもわからない」という話をする。

これを「偶然の合理化」と呼ぶこともできる。でも私は少し違う見方をしている。
「何か」は、あなたの信仰を必要としていないのかもしれない。
「何か」は、あなたが信じていようといまいと、そこにある。

ただ、信じている人と信じていない人の違いは、「何か」の存在の有無じゃなくて、「何か」とのコミュニケーション能力の差だと私は思っている。
アンテナを立てているかどうか。流れに気づけるかどうか。タイミングを掴めるかどうか。
それは信仰の深さじゃなくて、感度と誠実さの問題だと感じている。

私が15年間この仕事を続けてきた理由の一つは、「何か」を媒介するような仕事をすることで、自分自身の感度が維持されるから、というのもある。
タロットカードをめくるとき、ホロスコープを読むとき、私は「何か」に対して耳を澄ませている。
それが答えを与えてくれるわけじゃない。でも、一人で考えるよりも、はるかに精度の高い直観が働くと感じる瞬間がある。

これを「自己暗示だ」と言う人もいるだろう。そうかもしれない。
でも結果として、何千人もの人の人生の転機に寄り添って、役に立ってきた。
それ以上の証明が、私には必要じゃない。

「信じる」と「信頼する」は違う

ここで一つ、言葉の整理をしておきたい。

「神様を信じますか?」という問いへの私の答えは、「信じる」ではなく「信頼する」という言い方に近い。

信じる、というのはどこか「証明なしに事実として認める」という構造がある。
神様の実在を、証拠なしに事実として受け入れる——これが「信仰」の本来の意味に近い。

でも私にとって、「何か」に対する姿勢は、信仰というよりも信頼に近い。
信頼というのは、経験から来る。
何度かの経験の積み重ねで、「この流れは信頼できる」「このタイミングには意味がある」と思えるようになる感覚。

人を信頼するとき、その人の完璧さを信じているわけじゃない。その人が嘘をつかないことを信じているわけじゃない。でも、その人と関わってきた時間の中で積み上げられた何かが、「信頼」という感覚になる。

私にとっての「何か」への姿勢は、それに近い。
完全に理解しているわけじゃない。すべてが思い通りになるとも思っていない。でも、この「何か」は信頼できると、経験から感じている。

それは宗教じゃない。信条でもない。ただの体感の蓄積だ。

ある真夜中、鑑定で深刻な話を聞いた後、私は一人でカードをシャッフルしていた。
誰かのためではなく、自分のために。
「この仕事を続けていていいのか」という問いを心の中に持ちながら、カードを引いた。
出てきたのは「星」のカード。希望、信頼、回復——そのカードの持つ意味を、私はよく知っている。
「偶然だ」と思ってもいい。でも私はそのとき、声に出して「わかった」と言った。
誰もいない部屋で。
その「わかった」の先にあるものが、私が「何か」と呼んでいるものだ。

「何か」と付き合うための、実践的な態度について

ここまで少し観念的な話が続いてしまったので、もう少し実際的な話をしよう。

「何か」はいる、としよう。では、それとどう付き合えばいいのか。

私がお伝えできる、最も実践的な態度は一つだ。
「自分の感覚を粗末にしない」こと。

これは精神論じゃなくて、本当に実用的な話。
「何か」が作用するとき、それはほとんどの場合、あなたの「感覚」を通じてやってくる。
言語化できないけれど「これは違う」という感じ。なぜかわからないけれど「今じゃない」という感じ。ふと頭に浮かんだ名前。何度も目に入る言葉。夢に出てきた映像。

こういうものを「気のせい」と処理し続ける人は、「何か」との回線が細くなっていく。
逆に、こういうものに丁寧に注意を向けて、「これは何を示しているんだろう」と自分に問いかける習慣がある人は、「何か」との回線が太くなっていく。

もう一つは、「静かな時間を持つ」こと。
「何か」は、騒音の中では聞こえない。
情報過多の現代で、スマートフォンを常に手にして、SNSのノイズの中に浸かっていると、「何か」の声——というか、「気配」——は完全にかき消される。

神社に行くのは、ある意味でその「静けさ」を確保する儀式だと私は思っている。
神様がそこにいるからではなく、あなたが「静かになれる場所」だから。
森の中、海のそば、早朝の街——どこでもいい。ノイズが消えて、自分の内側の声と「何か」が接触できる場所であれば。

三つ目は、「流れに逆らうことを恐れない」こと。これは少し逆説的だけれど、「何か」と信頼関係を築くためには、時に「それが正しいと思うから」という理由だけで動く勇気が必要だ。
結果がわからなくても、損をするかもしれなくても、「これをやらないといけない気がする」という感覚に従う経験を重ねると、「何か」との対話が深まっていく。

私自身、アトリエヴァリーを作ったとき、周りからは「なぜこのタイミングで」と言われた。でも、「今しかない」という感覚がどうしても消えなかった。あの感覚を無視していたら、今の私はいない。

「何か」は、あなたの背中を押してくれる存在ではない。
あなたが動いたとき、そこに意味が生まれる、そういう存在だと私は思っている。

神様を「使う」な、「対話する」という姿勢へ

最後に、もう一つ大切なことを伝えておきたい。

「何か」を「使う」という姿勢と、「何か」と「対話する」という姿勢は、根本的に違う。

引き寄せの法則も、祈りも、占いも——それを「ツール」として使う人は多い。目的のための手段として。
私もそれを完全に否定はしない。占いだって、実用的な意味があって当然だし、鑑定が人生の選択の助けになることは事実だから。

でも、「使う」という姿勢でいる限り、その先にある「何か」の深い部分には、決して届かないと思う。

対話するというのは、「聞く」ということでもある。
聞くというのは、沈黙に耐えることでもある。
すぐに答えが来なくても、しばらくそこにいることができるかどうか。

以前、深夜に鑑定の予約が入ることがあった時期がある。
オンライン鑑定が普及し始めた頃で、時差の関係で深夜になる海外在住の方が多かった。
ある夜、話し終えた後、画面が落ちて一人になった私は、鑑定で使ったカードをそのままテーブルに広げて、しばらく眺めていた。
電気を落として、キャンドルだけを灯した部屋で。
その日の鑑定で出てきたカードの配置が、なぜかずっと気になっていた。
特定の誰かのためのメッセージではなく、「今この時期に、私に必要なメッセージ」として読み直してみた。
そのとき感じたこと——それは「急がなくていい」という感覚だった。
誰かが言ったわけじゃない。文字が見えたわけでもない。でも、確かに「急がなくていい」という何かがあった。
その感覚は翌日も続いて、私はある焦った計画を白紙に戻すことにした。
結果として、それは正しい判断だったと後でわかった。

「何か」は、答えをくれることもある。
でもそれは、あなたが聞く態勢を作ったときだけだ。
使おうとするのをやめて、ただそこに座って、「何か」と同じ静けさの中に入れたとき——
そのときに届くものが、本当の意味での応答だと私は思っている。

神様は、たぶんいない。
でも何かはいる。
そして「何か」と出会うための準備は、宗教でも信仰でも哲学でもなく、ただ、あなた自身が「静かになれるかどうか」の話なのかもしれない。

今日、あなたは最後にスマートフォンを置いたのは、いつですか?

「何か」は、喪失のあとに姿を現す

長くこの仕事をしていると、気づくことがある。
「何か」の存在を最も強く感じる人は、信心深い人でも、スピリチュアルに精通した人でも、必ずしもない。
何かを失った人だ。

大切な人を亡くした人。長年続けてきた仕事を失った人。信じていた関係が崩れた人。
喪失の後、人は不思議なほど「薄皮が一枚剥けた」ような状態になることがある。
それまで気にも留めなかったものが、急に目に入るようになる。風の動きとか、光の角度とか、偶然すれ違った人の言葉の断片とか。

以前、母親を亡くされたばかりの女性が鑑定に来た。
彼女は「占いとか全然信じない人間なんですが」と言いながら、それでも来た。
「どうしてもお母さんに会えた気がする瞬間があって、でも気のせいだよって自分に言い聞かせていて、でも気のせいにしたくなくて」と、声を詰まらせながら話してくれた。
それは、母親が好きだったカーネーションの鉢植えが、命日の朝に突然新しい花を咲かせたこと。何年も花を咲かせたことのなかった鉢が、その朝だけ。

私はこれを「サインだった」とも「単なる植物の生理現象だった」とも言わなかった。
ただ、「あなたがその花を見たとき、どう感じましたか」と聞いた。
彼女は「会えた気がした」と答えた。
「じゃあ、それはそういうことかもしれませんね」と私は言った。

「何か」は、証明を必要としない形でやってくることがある。
それを受け取るかどうかは、あなたの選択だ。
でも、喪失のあとの人間は、なぜかその「何か」に対して、普段よりずっとアンテナが立っている。
悲しみが、バリアを溶かすのかもしれない。
理性の鎧が、少し緩む瞬間に——「何か」は、そっと隙間に入ってくる。

これは「死者と交信できる」という話をしたいわけじゃない。
ただ、人間が「完全に開いた状態」になるとき、「何か」との接触が起きやすいという観察を、私は長年の仕事の中で繰り返し目にしてきた。
強さが「何か」を遮断し、脆さが「何か」を招く——そういう逆説が、この世界にはある。

答えを持たないまま、それでも続けるということ

15年間、私はこの問いを解決したことが一度もない。
「神様はいるのか」「何かとは何なのか」——その答えは、今この瞬間も、私の手の中にない。

それでいいと思っている。
むしろ、答えを出してしまった瞬間に、何かが死ぬと感じている。

「神様はいる」と確定した瞬間、人はしばしば「神様の代弁者」になろうとする。
「神様はいない」と確定した瞬間、人はしばしば「感じること」を自分に禁じてしまう。
どちらも、ある種の怠慢だと私は思っている。問い続けることをやめるという怠慢。

問い続けること。答えのない問いを、抱えたまま生きること。
それ自体が、「何か」と関わり続けることの、一つの形なんじゃないかと私は感じている。

ある秋の夜、鑑定の合間に、私はアトリエの窓から外を眺めていた。
街灯の光の中に、落ち葉が舞っていた。一枚の葉が、風もないのに、くるくると螺旋を描きながらゆっくりと降りていった。
何の変哲もない光景だ。でも私はそれをしばらく目で追って、「ああ、これが好きだな」と思った。
説明できないものが、そこにある感じ。
物理的に説明できても、それでも「何か」を感じる余地が残っている感じ。

神様はたぶんいない。
でも何かはいる。
その「何か」に名前をつけた瞬間に、それは「何か」ではなくなる。

名前をつけずに、それでも感じ続けること。
問い続けること。開いていること。
それが、私が15年間この仕事を通じて学んできた、唯一の「答えのない答え」かもしれない。

あなたが「何か」を感じたことがあるなら——それをまだ、名前で閉じ込めていないなら、それはきっと、あなたの中でまだ生きている。

感じることを、許可する

最後に、一つだけ。
「何か」を感じたとき、多くの人は即座に「でも気のせいかもしれない」と打ち消す。
その打ち消しの速さが、あなたと「何か」の距離を決めている。

気のせいかもしれない。そうかもしれない。でも、感じたことは事実だ。
感じた、という体験そのものを、あなたが否定する必要はない。
証明できなくても、再現できなくても、誰かに説明できなくても——「感じた」という事実は、あなたの内側に確かに起きた出来事だ。

それを大切に扱うことが、「何か」との最初の、そして最も誠実な一歩だと私は思っている。
あなたは今日、何かを感じましたか。

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