呪術を「悪いもの」と決めつける人へ、伝えたいこと。

「呪術って、怖いものでしょ?」と言われるたびに、私はしばらく黙って相手の顔を見る。否定したいわけでも、怒りたいわけでもない。ただ、その人が「呪術」という言葉から何を連想しているのか、その映像を少しだけ読み取りたいのだ。藁人形、黒魔術、呪い殺す——おそらくそういった画像が、脳裏に浮かんでいるのだろうと思いながら。今日は、その誤解を丁寧に解きほぐしていきたい。

目次

「呪術=悪」という刷り込みがどこから来たのか

まず正直に言う。呪術に対する「悪いもの」というイメージは、あなたが悪いのではない。それはかなり意図的に植え付けられた認識だ。
中世ヨーロッパの魔女狩りを思い出してほしい。十五世紀から十七世紀にかけて、ヨーロッパ全土で数万人——研究によっては数十万人ともいわれる人々が、「魔女」として処刑された。彼らの多くは、薬草を使って人を癒す民間治療師だったり、産婆だったり、あるいは単に財産を持つ未亡人だったりした。彼らが「悪魔と契約した」とされた理由のひとつは、自然の力を使って何かをしていたからだ。土地の草を煎じて薬を作る、星の動きを読んで種を蒔く時期を決める、儀式で地域の安全を祈る——そういった行為が「呪術」として告発の対象になった。
その「魔女狩り」の論理は、宗教的権力と政治的権力が結びついたときに最もよく機能した。民衆に自然と繋がる知恵を持たせておくことは、権力にとって都合が悪かった。自分たちを介さずに神や宇宙に直接アクセスできる人間を、「悪魔の手先」と呼ぶことで、その知恵を恐怖の対象に変えることができた。
日本でも同様の構造はある。陰陽道が時の権力と結びついたとき、民間の祈祷師や憑き物落としをする人々は「まがまがしいもの」として位置づけられていった。正史に残るものが「正しい呪術」となり、民間に伝わるものが「邪悪な呪い」として語り継がれた。
つまり「呪術は悪いもの」という認識は、長い歴史の中で繰り返し繰り返し、権力の側から民衆に刷り込まれてきたものだ。今あなたが持っているその感覚は、実は千年単位の情報操作の産物かもしれない。それを知るだけで、少し見え方が変わる人もいるだろう。

そもそも「呪術」とは何か——言葉の定義から始める

呪術という言葉を辞書で引くと、「超自然的な力に訴えて、望む結果を得ようとする行為・技術の総称」とある。この定義で言えば、神社に行って絵馬を書くことも、教会でろうそくに火を灯して祈ることも、仏壇に手を合わせて先祖に語りかけることも、すべて呪術の範疇に入ってしまう。
では、なぜ神社での祈願は「良いもの」で、他の呪術的行為は「悪いもの」なのか。その線引きは、本質的な違いによるものではなく、社会的・文化的な承認があるかどうかによるものが大きい。
私がタロットを始めたのは今から十五年以上前のことだ。当時、占いを仕事にすると言ったとき、ある知人から「怪しいことをするの?」と言われた。しかし同じ知人が、お正月に近所の大きな神社へ行って「今年も商売繁盛でよろしくお願いします」と頭を下げることには、何の疑問も持っていなかった。私にはそれが不思議でならなかった。
どちらも、目に見えない力に向かって、自分の意図と願いを届けようとする行為だ。使う媒体が絵馬かカードかという違いはあっても、行為の本質的な構造は同じだと、私は考えている。
西洋の魔術の文脈で言えば、呪術(マジック)とは「意志の力によって現実を変容させる技術」とされる。これはアレイスター・クロウリーの定義が有名だが、より広い意味で捉えれば、「自分の内なる力と外の世界を繋ぎ、望む方向へ流れを作る行為」と言える。
その意味では、朝に「今日はうまくいく」と心の中で唱えながらコーヒーを一杯飲む行為さえ、最も素朴な形の呪術だと私は思っている。言葉には力がある。意図には力がある。それを信じて日常に組み込むこと——その延長線上に、タロットも星読みも、儀式的な魔術も存在している。

私が初めて「本物の呪術」に触れた夜のこと

少し個人的な話をする。
私がまだ占い師としてキャリアを積み始めたばかりの頃、ある先輩から「ウィッカの満月の儀式に参加してみないか」と誘われたことがある。ウィッカとは、西洋の自然魔術の流れを汲む現代的な魔女信仰で、自然のサイクルと神聖な女性性・男性性を崇拝する宗教的な実践だ。
正直に言えば、最初は怖かった。「何をやらされるんだろう」という警戒心があったし、「これって怪しいんじゃないか」という刷り込まれた感覚も確かにあった。でも、行ってみることにした。
場所は都内のあるマンションの一室だった。部屋の中央に白いキャンドルが円を描くように並べられ、月桂樹と白いバラが飾られていた。参加者は七、八人。全員が静かに円の中に座り、満月の光をイメージしながら、声を合わせて何かを唱えた。
その内容は「自分自身の内なる光が、満ちていきますように」というものだった。他の誰かを傷つける言葉は、一言もなかった。誰かに呪いをかけるような内容も、一切なかった。ただ、自分の内側にある力を呼び起こし、それを月のエネルギーと繋げるための、ひとつの集中儀式だった。
儀式が終わったとき、私はひとつのことを強く感じた。これは、悪いものではない。むしろ、驚くほど真摯で、驚くほど静かで、驚くほど「自分と向き合うための空間」だった。
帰り道、夜空を見上げると満月が皓々と輝いていた。その光を見て、私の中で何かが決定的に変わった気がした。呪術とは「何かを壊す力」ではなく、「自分を整える力」だという感覚が、初めて身体の中に入ってきた瞬間だったと思う。

「黒魔術」と「白魔術」という分類の罠

呪術の話をすると、必ずといっていいほど「白魔術はいいけど黒魔術はダメでしょ」という声が出てくる。白魔術=善、黒魔術=悪、という二項対立だ。これは一見分かりやすいが、実はこの枠組み自体が問題をはらんでいる。
まず歴史的に見ると、「白魔術」と「黒魔術」という区分は比較的新しいものだ。西洋魔術の歴史において、この二分法が一般化したのは十九世紀から二十世紀にかけてのことで、魔術をより社会的に受け入れやすくしようとした人々が作り上げた枠組みでもある。
さらに言えば、「白か黒か」を決めるのは誰なのか、という問題がある。例えば、失恋した相手が新しい恋人のもとへ行かないようにという「縛り」の魔術は黒魔術か。では、その「縛り」の魔術が、DVをする恋人から逃げるためだったら? 誰かを守るためのものだったら? 目的や文脈を無視して「手段」だけで善悪を判断することの限界が、ここに現れる。
私が思うに、重要なのは白か黒かではなく、その行為の「方向性」だ。自分の力を使って、自分や他者の人生をより豊かにする方向に向かっているか。それとも、恐怖や支配や憎しみを増幅させる方向に向かっているか。
これは魔術に限った話ではない。料理の包丁だって、人を養うことも、人を傷つけることもできる。言葉だって、人を勇気づけることも、打ち砕くこともできる。問題は道具ではなく、それを使う人間の意図と責任だ。
呪術が「悪いもの」だと断定したがる人は、この「意図と責任」という部分から目を背けたがっているように、私には見えることがある。何かを悪と名指すことで、自分がその力を持っていないことを正当化する——そういう心理的な動きが、往々にして「呪術は悪だ」という断定の裏に潜んでいる気がする。

呪術的思考が持つ、現代人に必要な力

私は占い師であり、ヘアメイクアーティストであり、ライターでもある。三つの仕事を横断しながら、ひとつ確信していることがある。それは「呪術的思考」こそが、今の時代に最も必要とされている力のひとつだということだ。
呪術的思考とは何か。簡単に言えば、「意図を持ち、集中し、象徴と働く」能力だ。
例えば、タロットのリーディングをするとき、私は一枚のカードに宇宙の縮図を見る。ウェイト版の「女帝」のカードには、豊穣の女神が広大な野原に座っている。その背景の流れる川、足元の小麦、頭上の星の冠——それぞれが特定の意味を持つ象徴のシステムだ。カードを読むとは、その象徴のシステムを通して、目の前の人の状況と宇宙のパターンを繋げる作業だ。これは本質的に、呪術的な思考の産物だ。
一方で、ある企業の役員から相談を受けたとき(私は企業顧問として占星術を活用するお仕事もしている)、その方が「決断できない」と言っていた。私はその方のホロスコープを見ながら、「あなたの土星は第七ハウスにある。それはつまり、関係性の中でこそ自分の責任を試される構造です」と伝えた。その言葉が、抽象的な悩みを具体的な「自分の課題」として整理するための鍵になった。
星の動きという象徴を使って、現実の課題を読み解く。これもまた、呪術的思考の一形態だ。
現代社会は、数字と論理で動く。それは素晴らしいことだし、必要なことだ。しかしその一方で、「測れないもの」「証明できないもの」に対して、私たちはひどく鈍感になってしまっている。直感、象徴、夢、儀式——これらは測れないが、人間が何万年もの間使ってきた知性の形だ。それをすべて「非科学的」「呪術的(=悪い)」と切り捨てることは、人間の知性の半分を捨てることと同じではないか、と私は思う。

実際に「呪い」は存在するのか——レイラの見解

ここで少し踏み込んだ話をする。「呪い」は実際に存在するのか、という問いだ。
私の答えは、「存在する」だ。ただし、多くの人が想像するような形ではない。
私がこれまで十五年以上、数え切れないほどの鑑定をしてきた中で、「呪われている」と訴えてくる方が一定数いる。そういう方のエネルギー的な状態を読むと、確かに何か「重いもの」が絡みついているケースがある。しかしそれは、多くの場合「誰かに呪いをかけられた」というよりも、「誰かの強い負の感情が向けられ続けた結果、本人がそれを引き受けてしまっている」状態だ。
人間の感情には重さがある。怒り、恨み、嫉妬——これらは確かに、相手に向けられると「何か」を運ぶ。それを「呪い」と呼ぶことはできるかもしれない。でもそれは、藁人形に五寸釘を打つといった行為ではなく、強烈な感情エネルギーが別の人間に干渉するという、もう少し地味で日常的な現象だ。
あるとき、長年の親友から理不尽に絶交されたと話してくれたクライアントの方がいた。絶交の言葉は激しく、「あなたは呪われる」という言葉まで含まれていたという。その方は本当に体調を崩し、仕事もうまくいかなくなっていた。カードを広げると、確かにエネルギーの滞りが読み取れた。
私が行ったのは、複雑な儀式でも高額なお祓いでもない。その方が「受け取ってしまっている感情の重さ」を、自分自身で手放すための言葉と視点を提供することだった。そしてその方は少しずつ、自分の力を取り戻していった。
これは「呪いを解く」という行為かもしれないし、「カウンセリングに近い作業」とも言えるかもしれない。でもどちらにしても、そこにあったのは「人の意識の力」だ。かけた側も、解いた側も、そして取り戻した側も、みんな「意識の力」を使っている。
呪いが実在するとするならば、それは人間の意識が持つ力そのものだ。だとすれば、その力を「悪いもの」と切り捨てることは、人間の意識そのものを恐れることと同じになってしまう。

「知らないから怖い」という構造と、知識の持つ解毒力

呪術を「悪いもの」と決めつける人の多くに、共通していることがある。それは「知らない」ということだ。
これは批判ではない。知らないのは当然だ。学校では教えてくれないし、テレビや映画では誇張された恐怖として描かれることが多い。SNSでも、センセーショナルな「黒魔術体験談」の方が拡散されやすい。
恐怖は「知らないこと」から生まれる。だから、知ることが最も強力な解毒剤になる。
私が地上波の番組に出演させていただいたとき、ディレクターから「呪術って怖いですよね」という前提でコーナーを組みたいという相談があった。私はお断りした。「怖いもの」として見せることは、視聴率は取れるかもしれないが、見た人の誤解をさらに深めるだけだから、と説明した。最終的にそのコーナーは別の方向でまとまり、私が出演した別の形のコーナーでは「占いと呪術の歴史的背景」について丁寧に話す時間をもらえた。あの経験は、今でも大切に思い出す。
知識を持つことは、恐怖を消すことではない。知識を持つことで、恐怖の正体がはっきりし、自分がどこまで向き合うかを「選べる」ようになる。
例えば、タロットカードを初めて見た人が「悪魔のカードが出た」と青ざめることがある。でも「悪魔」のカードが実際に意味することを学ぶと、それは「物質的な欲望への執着」や「自分を縛っているものへの気づき」を示すカードだとわかる。怖くはない。むしろ、自分の内側を映す鏡だ。
ただ「悪魔という絵」だけを見ると恐ろしい。しかしその象徴的な文脈を理解すると、それは自己認識のための道具になる。呪術全般も、この構造で理解できると思っている。
知識は、恐怖を武器から道具に変えてくれる。だから私は今日も、こうして書く。

「使う人間」の問題——道具は選ばない、人間が選ぶ

ここまで読んでくれた方には、もう伝わっているかもしれない。でも、もう少し丁寧に話したい部分がある。
呪術が悪かどうかではなく、「呪術を使う人間がどういう意図を持っているか」こそが問題の核心だ、という話だ。
包丁のたとえは先ほどもしたが、もっと身近な例で言おう。言葉だ。「あなたは大切な人だ」という言葉は、相手を救うことができる。「あなたなんていなければよかった」という言葉は、相手の心に刃を刺す。呪術もまったく同じだ。
私は鑑定の中で、たまに「あの人を不幸にしたい」という相談を受けることがある。その方の気持ちは理解できる。深く傷ついて、怒りと悲しみが混ざり合って、どこかにぶつけたくて仕方がない。その感情は本物だし、否定するつもりはない。
でも、私はそのために呪術を使わない。理由はシンプルで、「誰かを不幸にする意図で使う呪術は、使った本人に一番大きなダメージを与えるから」だ。これは倫理的な話というより、エネルギー的・実際的な話だ。
憎しみを使って呪いをかけるとき、人はその憎しみを自分の中でさらに育てることになる。その感情に意識を向け、それを増幅させて外に向ける——その作業は、自分の内側を憎しみで満たす作業でもある。その結果、相手が不幸になる前に、自分がその重さに潰されていくケースを、私はこれまで何度も見てきた。
だから私は、そういう相談をされたとき、「どうやって相手を不幸にするか」ではなく、「どうやって自分がその痛みから自由になるか」という方向に話を転換する。そのために占術を使い、その人自身のチャートを読み、どういう力を持ってこの場所を通り越せるかを一緒に探る。
これが呪術の正しい使い方だ、とは言わない。でも、少なくとも私のアトリエヴァリーでは、そういう使い方をしている。

魔女と呼ばれた女たちが、本当に守っていたもの

最後に、冒頭の歴史の話に戻ろう。
魔女狩りで処刑された人々が、実際に何をしていたかを調べると、そこには一貫したパターンがある。彼女たちは「繋ぐ者」だった。人間と自然を繋ぎ、過去と未来を繋ぎ、目に見える世界と見えない世界を繋いでいた。
薬草の知識を持つ女性は、自然の中にある癒しの力を人間に届ける橋渡しをしていた。星を読む者は、宇宙のリズムと人間の営みを繋いでいた。儀式を執り行う者は、コミュニティの精神的な健康を守るための「場を作る力」を持っていた。
それらはすべて、「繋がりを守る」ための呪術だった。共同体が生き延びるために必要な、地に足のついた知恵だったと私は思う。
その知恵が「邪悪」と名指しされたのは、それが力だったからだ。繋がりを持つ力は、支配に抗う力でもある。自分で自然にアクセスできる人間は、誰かに依存しなくていい。その自立性こそが、権力にとって脅威だった。
今の時代に呪術を学ぶことは、その「繋がりを守る」知恵を取り戻すことだと私は考えている。占星術を学ぶことで、宇宙のサイクルの中に自分を位置づける力を取り戻す。タロットを学ぶことで、象徴の言語を通して自分の無意識と対話する力を取り戻す。儀式を学ぶことで、意図を持って空間と時間を作る力を取り戻す。
これらはすべて、「自分自身の中心に戻るための道具」だ。誰かを傷つけるためのものでも、何かから逃げるためのものでもない。
ある春の夜、私はアトリエでひとり、新月の儀式をした。白いキャンドルを一本灯して、今年の自分が手放したいものと、迎えたいものを静かに書き出した。窓の外では風が揺れていて、遠くで猫が鳴いていた。誰かに頼むわけでも、何かに縋るわけでもない、ただ自分の意図を宇宙の流れに乗せる静かな行為。それが私にとっての呪術だ。
その行為のどこに「悪」があるのか、私には今でも見つけられない。

「悪いもの」と決めつける前に、一度だけ止まってみてほしい

ここまで長く読んでくれた方に、少しだけ整理して伝えたい。
呪術を「悪いもの」と決めつけることは、無害ではない。それは何かを守っているように見えて、実は自分の力の半分を自分で封じ込める行為でもある。
「そんなものに関わらなければ安全だ」という感覚は理解できる。でも、その「安全」は本当に安全なのか。目に見えない力を「悪」とラベルして閉じ込めることで、その力を使う能力ごと失ってしまっていないか。
直感を信じる力。象徴を読む力。意図を持って空間を作る力。自分の内なるリズムと宇宙のリズムを合わせる力。これらはすべて、人間が何万年もかけて培ってきた知性の形だ。
私は占い師として、タロットを通じて、星読みを通じて、多くの人に関わってきた。その経験から言えることがひとつある。人生が行き詰まっているとき、「論理と数字」だけで解決できる問題はむしろ少ない。多くの場合、人が必要としているのは「意味の物語」だ。自分の経験に意味を見出し、それを宇宙の大きな流れの中に位置づけることで、人は前に進める。
それを提供するのが、私にとっての呪術の役割だ。
最後にひとつだけ聞いてみたい。あなたが「呪術は悪いもの」と思うとき、その判断は本当に自分の中から来ているのか——それとも、誰かに長い時間をかけて植え付けられたものか。
そのふたつを区別できたとき、初めて「選ぶ」ことができるようになる。

呪術と「美」は、同じ根を持っている

私はヘアメイクアーティストでもある。この仕事を長く続けてきた中で、ずっと感じていたことがある。メイクという行為は、突き詰めていくと呪術的だ、ということだ。
鏡の前に座るクライアントの顔に向き合うとき、私はまず「その人の中にある美しさ」を読もうとする。単純に「目が大きい」「輪郭がシャープ」という話ではない。その人が本来持っている光の質、存在の重心のようなもの——それがどこに宿っているかを、目で、手で、感じ取ろうとする。
そして、その光を表面に引き出すために、色を選び、形を決め、筆を動かす。使うものは化粧品だが、やっていることは「その人の本質を顕現させる儀式」だと、私は本気で思っている。
化粧の語源を調べると面白い。日本語の「化粧」という字は「化ける」と「粧う」から来ているという説がある。「化ける」は変身を意味するが、それは偽ることではなく、本来の姿に近づくための変容だ。
世界の多くの文化で、化粧は儀式と不可分だった。古代エジプトでは、アイラインを引くことは邪眼を防ぐための魔術的な行為だった。ネイティブ・アメリカンの多くの部族では、顔に施す彩色が精霊との対話を可能にすると信じられていた。日本の舞台化粧も、役者が「神や鬼に変容する」ための神聖な準備だった。
つまり「美しくなる」という行為は、ずっと昔から「呪術的な変容」と深く結びついていた。メイクを施すとき、私は密かにその古い系譜を引き継いでいると感じている。ファンデーションを肌に溶かし込むとき、口紅の赤を選ぶとき、その一筆一筆に「あなたが本来持っている力を、今日、世界に向けて開く」という意図が宿る。
「呪術は怖いもの」と思う人も、毎朝鏡の前で眉を描き、色を纏い、自分を整えているはずだ。その行為の中にすでに、呪術の本質——意図を持って自分の力を引き出す——が息づいている。形が違うだけで、やっていることの核心は変わらない。

「怖がることを選ぶ」のも、「知ることを選ぶ」のも、どちらも自由だ

ここまで読んできて、「でも私はやっぱり関わりたくない」と思う人もいるだろう。それはそれで、完全に正当な選択だ。私はこの文章で、全員に呪術を学んでほしいとか、儀式をやってみてほしいとか、そういうことを言いたいわけではない。
ただひとつだけ、お願いしたいことがある。「関わらない」と「悪いものだと断言する」は、まったく別の話だということを、意識してほしい。
辛い食べ物が苦手な人は、唐辛子を食べなければいいだけで、唐辛子を「邪悪な食べ物だ」と他人に言う必要はない。高所が怖い人は、高いところに登らなければいいだけで、山岳登山をする人を「異常者だ」と断じなくていい。
呪術が自分に合わないと感じるなら、そっと距離を置けばいい。でも「悪いものだ」という断言は、それを真剣に学び、実践し、人のために使っている人々を無根拠に傷つける。私自身も、この十五年の中で、そういう言葉に何度も晒されてきた。
地上波に出演したとき、放送後に見知らぬ人から「呪術師なんか信用するな」というメッセージが届いたことがある。私は少し笑って、静かにメッセージを閉じた。怒る気にもなれなかった。その人の中の「呪術師」というイメージが、私とはまったく別のものを指していることが、一瞬でわかったからだ。
恐怖から来る断定は、対話を閉じる。知識から来る判断は、対話を開く。どちらを選ぶかは、その人の自由だ。でも、開かれた対話の先にしか、本当の理解は生まれない。
私がアトリエヴァリーで大切にしていることのひとつは、「否定から入らない」ということだ。どんな信仰を持っていても、どんな文化的背景があっても、「呪術なんて嘘だ」と思っていても——扉を叩いてきた人には、まず話を聞く。そこから始めるしか、本当のことは何も伝えられないと知っているから。

あなたがすでに持っている、その力の名前

最後に、少し静かな話をしたい。
この文章を読んでいるあなたは、おそらく何らかの形で「目に見えないもの」に関心を持っている人だ。そうでなければ、こんなに長い文章を最後まで読もうとはしないはずだ。
その関心は、どこから来るのだろうか。
何かが起きたとき、偶然とは思えない感覚を持ったことはないか。大切な人のことを急に思い出したとき、その人から連絡が来たことは。直感に従って動いたとき、それが正解だったと後になってわかったことは。夢の中に出てきたものが、現実のヒントになっていたことは。
それらの経験は、「気のせいだ」で片付けることもできる。でも、「自分の中にある、まだ名前のついていない知性が働いた」と捉えることもできる。
呪術とは突き詰めれば、その「名前のついていない知性」に意識的にアクセスするための技術だ。偶然の一致に気づく感度を磨き、象徴の言語を学び、意図を持って行動する習慣を育てる。それだけのことだ。
私がタロットを手にして初めてカードを引いた夜のことを、今でも鮮明に覚えている。当時二十代だった私は、アルバイト先の古本屋で見つけた古いタロットデッキを、格安で買って帰った。説明書も読まないまま、なんとなくシャッフルして、一枚引いた。出たのは「星」のカードだった。夜空の下に跪く裸の女性が、二つの器から水を注いでいる絵。その絵を見た瞬間、理由も意味もわからないまま、涙が出た。
今なら意味がわかる。「星」は希望と再生を意味する。嵐の後に天が開く、その静かな光の象徴だ。当時の私が何を求めていたか、何に疲れていたか——そのカードは一瞬でそれを映し出していた。
あの夜の涙が、私のすべての出発点だった。それは呪術に「出会った」夜ではなく、自分の中にすでにあったものに「名前を付けてもらった」夜だったと、今は思う。
あなたの中にも、きっと同じものが、ずっと前からある。

目次