スキンケアを人に教えるのが、昔からずっと苦手だった。正確には「嫌い」と言っていい。なぜこんなに嫌なのかを、最近ようやく言語化できた気がして、今日はそれをそのまま書く。美容のプロとして15年やってきて、ヘアメイクの仕事もして、占いの仕事もして、たくさんの人の「外側」と向き合い続けてきた私が、なぜスキンケアを教えることだけはずっと渋ってきたのか。その話をしようと思う。
「教えて」と言われた瞬間に感じる、あの違和感の正体
「レイラさんって肌きれいですよね、何使ってるんですか?」
これ、何百回聞かれたかわからない。撮影現場でも、鑑定のあとでも、イベントのときでも。聞かれるたびに、私は毎回ちょっとだけ間を置く。その間に何が起きているかというと、正直に答えるべきか否かを考えているのではなくて、どこから話せばこの人に本当のことが伝わるだろう、という途方もなさに一瞬とらわれているのだ。
答えようとするたびに、答えが出てこない。「これを使っています」と言えば嘘になる気がする。「この順番で塗っています」と言えば肝心なことを省略している気がする。何かが常に足りなくて、何かが常にはみ出す。その感覚を、昔は「うまく説明できない自分の問題だ」と思っていた。でも今は違うとわかっている。問題は私の説明力ではなく、スキンケアという行為そのものが「教えられる形」をしていないことだ。
レシピを教えるのとは訳が違う。調理工程は再現できる。材料と火加減と時間を正確に伝えれば、ある程度同じものができあがる。でもスキンケアは違う。同じ化粧水を同じ量使っても、手の温度が違えば結果が変わる。部屋の湿度が違えば肌の吸い込み方が変わる。その人がその日どんな感情を抱えていたかで、皮膚の状態すら変わる。スキンケアは「行為」ではなくて、もはや「状態」なのだと私は思っている。状態は教えられない。状態は、自分で体感するしかない。
だからあの間は、躊躇でも意地悪でもない。「どこから話せばこの人の状態に届くか」を探っている、ある種の診断タイムなのだ。そしてほとんどの場合、私は「診断する時間が足りない」と感じて、結局表面的な答えだけを返してしまう。それが嫌で仕方なかった。
私のスキンケアは、15年かけて壊してきた歴史だ
今の私のスキンケアにたどり着くまでに、私はいったい何回「これが正解だ」と思っては捨ててきたか。ヘアメイクの仕事を始めたばかりの頃は、現場で先輩アーティストたちから「これがいい」「あれが使える」と教わるたびに、素直に試した。その時代に使っていたのは今では棚の奥にすら残っていない。肌が変わったから。生活が変わったから。自分が変わったから。
30代に入って、肌が急に「飽きた」みたいな顔をし始めた。ずっと使えていたものが急に刺激になる。乾くはずのない季節に粉を吹く。化粧ノリが突然悪くなる。撮影前日の夜、ホテルの洗面所でいつもの手順でケアをしていたら、翌朝に顎のラインがじんわり赤くなっていた。原因はわからなかった。使ったものは全部前日と同じはずだった。でも、違った。前日との違いは「私の状態」だけだった。そのとき初めて、肌は私の内側の状態を映す鏡だと腹の底から理解した。頭でわかっていたことが、体感に変わった瞬間だった。
そこから私のスキンケアへの向き合い方が変わった。「何を使うか」から「今の自分に何が必要か」へ。製品のスペックを読む前に、今日の自分の肌の声を聞く。それが習慣になったのはいつ頃か正確には覚えていないけれど、少なくとも10年前には今のスタイルの原型があった。そしてその10年の間に、試したけれど手放したものが山ほどある。高価なものも、話題のものも、信頼する人に勧められたものも。全部捨てるとは言わない。でも「今の私に合わなくなった」という理由で、惜しみなく棚から出した。
その「壊してきた歴史」を、どうやって人に教えるというのか。教えられない。そこには「私が15年かけて経験した試行錯誤」という文脈が丸ごとセットになっているから。ルーティンだけを切り取って渡しても、それはレシピのコピーではなく、言語のわからない料理本を渡すようなものだと私は思う。
「いいものを教える」ことと「その人に合うものを伝える」ことは、まったく別の話
世の中には「おすすめスキンケア」の情報が溢れかえっている。美容系インフルエンサーが紹介する。雑誌が特集を組む。SNSのタイムラインは毎日「これが最強」「これが変わった」で埋まっている。私はその情報を否定しない。でも、あの形式の情報発信を自分がやろうとすると、毎回手が止まる。
なぜかというと、「いいもの」と「その人に合うもの」は別物だと知っているから。美容師の友人が「絶対これ」と推してきたオイルが、私の肌には重すぎて一週間で毛穴が詰まった。皮膚科医が書いた本に「最も低刺激」と書かれていた洗顔料が、私には洗い上がりに突っ張り感が出て合わなかった。逆に、ドラッグストアの棚でなんとなく手に取った安い乳液が、今でも手放せない定番になっている。「良さ」には客観的な基準があるようで、実は個人の皮膚という、この世に一枚しかない生地にフィットするかどうかという主観的な体感の上にしか成立しない。
その人の皮脂の量、水分量、ターンオーバーの周期、アレルギーの有無、ホルモンバランスの状態、住んでいる地域の気候、職場の空調の乾燥度合い、ストレスのかかり方、睡眠の質——これら全部を無視して「このセラムがいい」と言えるのは、よほど鈍感か、よほど確信があるかのどちらかだ。私は確信を持てないから、言えない。言いたくない。「雑に言う」ことへの抵抗が、嫌いの正体の一層目にある。
ヘアメイクの仕事をしていると、人の肌を間近で見る機会が山ほどある。同じファンデーションを同じ手順で塗っても、人によって全然違う仕上がりになる。それを目の当たりにしてきた時間が、私を「スキンケアを雑に教えること」からどんどん遠ざけてきた。
スキンケアと占いが、私の中で同じ棚に置かれている理由
タロットも占星術も、15年やってきた。そしてスキンケアも、同じ時間をかけて向き合ってきた。この二つが私の中で同じ棚に置かれていることに、最近気づいた。
占いを「答えを出すもの」だと思っている人が多い。でも私はそう思っていない。占いは「今この人がどういう状態にあるかを読むもの」だと思っている。出てきたカードや惑星の配置は、その人の内側の状態を映す言語だ。そしてそこから「だからこういう行動が今の流れに合っている」という方向性を示す。押しつけではなく、地図を読む作業だ。
スキンケアも同じだと私は思っている。鏡を見て、触って、今日の肌の状態を読む。乾燥しているのか、炎症があるのか、くすんでいるのか、ターンオーバーが乱れているのか。その「読み」があって初めて、今日必要なものが決まる。昨日のルーティンをそのまま今日もやる、というのは、昨日引いたカードを今日も使い回すのと同じだ。状態は毎日変わるのだから、答えも毎日変わって当然だ。
鑑定でクライアントさんと向き合うとき、私は「あなたの状態はこうで、だからこう動いてください」と言うために全神経を集中する。その人の言葉、表情、声のトーン、質問の仕方、どこに力が入っているか——全部を読んで、ようやく「今この人に届く言葉」を選ぶ。その繊細さを、スキンケアにも同じだけ要求される気がして、だから「教える」という行為が重くなるのだと思う。軽く教えることへの、生理的な嫌悪感がある。
「正解を渡す」より「問いを渡す」ほうが、よっぽど難しくて価値がある
先日、長年の知人から「スキンケアのこと一から教えてほしい」と頼まれた。断れない相手だったので、久しぶりに腰を据えて向き合った。何を使っているか、の前に、まず「今どんな状態が気になっているか」を聞いた。そこから「なぜそうなっているか」「生活の何が影響しているか」を一緒に辿っていったら、1時間経っても製品の名前を一つも出していなかった。
知人は少し困った顔をした。「もっとシンプルに教えてもらえると思ってた」と言われた。ごもっとも。でも私は「シンプルに教えること」を、親切だと思えなかった。シンプルにする、ということは、その人の状態に合わせる手間を省くということだ。それは効率的に見えて、実は「あなたのことを読む気がない」ということと同じだ。
最終的にその知人には、「まず三つだけ問いを立ててみて」と伝えた。「今の肌で一番ストレスになっていることは何か」「それはいつ頃から始まったか」「その時期に生活の中で変わったことは何か」。製品の前に、この問いに答えてみることだ、と。最初から「これを使え」と言うより、問いを渡すほうが、その人の肌に長く届くと信じているから。
「正解を渡す」のは一瞬で終わる。「問いを渡す」のは、その人がずっと考え続けなければならない。だから難しいし、嫌がられることもある。それでもやっぱり、問いのほうが誠実だと私は思う。答えよりも問いに、その人を思う気持ちが宿る。
「肌がきれい」と言われることへの、複雑な気持ち
「肌きれいですね」と言われるたびに、正直、少しだけ申し訳なくなる。きれいに見えているのは事実かもしれないけれど、そこに至るまでの道のりを知っている私には、「きれい」の一言があまりにも軽く聞こえることがある。悪意はない。でも。
私の肌には歴史がある。20代の頃、現場の過酷なスケジュールで肌がボロボロになった時期があった。連日の撮影で、ベースメイクを塗り重ねる毎日。クレンジングは常に急いでいて、丁寧にできていなかった。気づいたらあごから頬にかけて慢性的な吹き出物が出るようになっていた。そのとき私は「プロのメイクアーティストなのに自分の肌のケアができていない」という事実に、ちょっとした屈辱を感じていた。プライドが先に立って、人に相談もできなかった。
そこから抜け出すのに、一年以上かかった。いろんなものを試した。皮膚科にも行った。食事を変えた。睡眠を優先するようにスケジュールを組み直した。そして何より、「肌に何かを足す」前に「肌から引き算する」という発想に切り替えた。洗いすぎない、塗りすぎない、触りすぎない。減らしていくことで、肌が本来持っている力が戻ってきた。それが今の私のスキンケアの根幹にある。
だから「きれいですね、何使ってるんですか?」と聞かれると、「一年かけて引き算した歴史です」と言いたくなる。でも言えない。長すぎるし、暗すぎるし、相手が求めているのはそういう答えではないとわかっているから。その「言えない感じ」が積み重なって、嫌いになった、という側面もある。
美容業界への、愛と憤りが同時にある
美容が好きだ。心底好きだ。でも美容業界の「教え方」には、ずっと違和感がある。新しい成分、新しい技術、新しいブランド——毎シーズン「これが革命的」と喧伝されて、消費者はその波に乗り続けることを求められる。「昨シーズンのものはもう古い」という空気が、絶えず流れている。
その空気の中で、私が感じるのは「自分の肌への不信感を煽ることで商品を売っている」という構造だ。「今のあなたの肌は足りていない」「このままでは老ける」「もっとケアしなければならない」——その不安を刺激して、「だからこの製品が必要だ」という動線に誘う。マーケティングとしては正しい。でも、人の肌への向き合い方として正しいかというと、私は首を縦に振れない。
ヘアメイクの仕事をしながら、何人もの「美容過多」の肌を見てきた。高いもの、話題のものを次々と試して、肌が何に反応しているのかわからなくなっている状態。引き算ができなくなっている状態。肌が叫んでいるのに、新しい何かを足し続けている状態。撮影前の控え室で、ベースを塗ろうとしたら肌が拒絶反応を示していて、途方に暮れたことが何度もある。本人は「毎日ちゃんとケアしている」と言う。でも肌は「もう何も入れないでくれ」と言っている。その乖離が、切なかった。
美容情報を「教える」ことが増殖している時代に、私が「教えたくない」と思う理由の一つがここにある。私が教えることで、また「足す」方向に向かってほしくない。教えるなら「どう読むか」を教えたい。でもそれは、一言では済まない。だから黙ってしまう。
「自分の肌の言語」を持つことが、唯一の答えだと思っている
洗面台の前で毎朝自分の肌を見る。触る。引っ張ったりはしないけれど、手のひら全体でそっとのせて、温度と質感を確かめる。乾燥しているか、油っぽいか、くすんでいるか、むくんでいるか。それをただ確認する。そこから「今日は何が必要か」を考える。これが私の毎朝の最初の儀式だ。
この儀式を誰かに教えようとすると、「は?何が違うの?毎朝鏡見てるし」という反応が返ってくることがある。そう、見ているとは思う。でも「読んでいるか」というと、それは別の話だ。顔を見ることと、肌の状態を読むことは、目を使っているという点では同じでも、やっていることは全然違う。鑑定でカードを「見る」ことと「読む」ことが違うように。
読む、というのは「自分の肌の言語を持つ」ということだ。乾燥しているときの自分の肌の感触を知っている。炎症が起きているときの微妙な熱感を知っている。睡眠不足のときの透明感のなさを知っている。ホルモンの変動が来たときの皮脂のパターンを知っている。その「知っている」は、何千回も自分の肌と向き合った積み重ねの上にある。一朝一夕では育たない。
その言語を育てる時間を、誰かの代わりに過ごすことはできない。だから教えられない、という気持ちの根っこにはこれがある。私がどれだけ丁寧に「こうするといい」と伝えても、その人が自分の肌の言語を持っていなければ、伝わらない。逆に言うと、その言語を持っている人には、何を言わなくても通じる。「そうそう、それ私も感じてた」という話になる。言語が同じだから。
それでも、誰かの「最初の一歩」には手を貸したいという矛盾
ここまで書いておきながら、矛盾を告白する。私はスキンケアを教えるのが嫌いだけれど、誰かがスキンケアについて「本気で悩んでいる」と感じたとき、スイッチが入って止まらなくなる自分もいる。
数年前、アトリエヴァリーに来た若いクライアントさんが、占いの鑑定の最後に「実は肌のことで悩んでいる」と打ち明けてきた。ニキビ跡が気になる、でも何を使っても改善しない、皮膚科にも行ったけれど「一旦何もしないでみましょう」と言われて途方に暮れている、と。その言葉を聞いた瞬間に、私の中で何かが解除された感じがした。「本気で悩んでいる」「すでに足し算の過ちに気づいている」「でも引き算の仕方がわからない」——その状態が私には手に取るようにわかって、気づいたら1時間以上話していた。
製品の名前も話した。順番も話した。でもそれより多くの時間を使ったのは「なぜそうするのか」の理由を話すことだった。理由を知っていれば、製品が変わっても応用できるから。理由のない「これを使え」は、その人の肌の言語を育てない。理由のある「こういう状態のときはこういう性質のものを選ぶ」は、長く使える地図になる。
その方が帰り際に「こんなにスキンケアの話をしてもらえると思っていなかった」と言ってくれた。嬉しかったし、同時に「それだけ私が普段教えることを渋っているということか」と少し苦笑いした。嫌いなのは「雑に教えること」であって、「本気で向き合いながら伝えること」ではないのかもしれない。それが今の私の結論だ、たぶん。
嫌いな理由の、一番奥にあるもの
最後に、一番正直なことを書く。スキンケアを教えることが嫌いな理由の、一番底にあるものは何か。それは「スキンケアが、私にとって誰にも渡したくないほど個人的なものだから」だと思う。
誰にも見せていない顔がある。すっぴんのことではなくて、洗面台の前でひとりでいる時間のことだ。その時間は、私が「Layla」でも「占い師」でも「ヘアメイクアーティスト」でもない。ただの自分だ。鏡の前で、今日の状態を確かめて、必要なものを選んで、手で肌に届ける。その一連の行為に、私は15年かけて育てた「自分との対話」が詰まっている。
その対話のやり方を教えようとすると、私は「自分の一番プライベートな部分を切り取って渡そうとしている」感覚になる。できることとできないことがある。料理のレシピは渡せる。タロットの解釈の仕方も教えることができる。でも「洗面台の前のひとりの時間」は渡せない。そこには私しかいないから。その孤独な時間の中で育ったものを、言葉に変換して渡そうとするたびに、何かが失われる気がする。
だから嫌い。教えたくない。それが全部だ。でも同時に、本気で悩んでいる人の前では、その「嫌い」が溶ける。不思議なことに。そして溶けた後に残るのは、「早く自分の肌の言語を見つけて」という、押しつけがましくない願いだ。製品でも手順でもなく、言語を。
あなたは今、自分の肌と何語で話しているだろう。
「引き算」を覚えた夜のこと
引き算という発想に切り替えた、と先に書いた。でもその切り替えは、ある一夜の出来事がきっかけだったと今では思っている。具体的に話す。
30代の初め、仕事が重なって三週間ほとんど休みのない時期があった。地方のロケが続いて、ホテルに泊まるたびに水が変わる。空調が乾燥している部屋もあれば、逆に湿気が籠もりすぎている部屋もある。そういう環境の変化に、肌が悲鳴を上げていた。でも私はそれに気づかないふりをして、「ケアをちゃんとしていれば大丈夫」と言い聞かせながら、毎晩ルーティンを崩さなかった。美容液、化粧水、乳液、クリーム——全部、丁寧に。むしろ「頑張っている自分へのご褒美」みたいな気分すらあった。
最終ロケの夜、旅館の洗面所で顔を洗ったとき、いつもとまったく違う感触がした。肌が何も吸い込まなかった。化粧水をのせても、表面でころころと弾いて、中に入っていかない感じ。飽和状態、という言葉が頭に浮かんだ。肌が「もういらない」と言っていた。それでも私はいつもの量をいつもの順番でのせようとして、手が止まった。鏡の中の自分の顔を見て、「あ、これは私が肌の声を完全に無視していたんだな」と、ようやく気づいた。
その夜は、洗顔だけして何もつけなかった。怖かった。翌朝パキパキになるかと思った。でも翌朝、肌は予想よりずっと静かだった。赤みも出ていなかった。むしろ前日より落ち着いていた。その「何もしない」という選択が、私に最初の引き算を教えてくれた夜だった。以来、私は「今夜は足すべきか、引くべきか」を毎晩考えるようになった。その問いかけが習慣になるまで、たぶん半年はかかった。でも今では、考えずともわかる。体が覚えている。
季節を肌で読む、という話
スキンケアを教えにくいもう一つの理由として、季節の読み方が人によってまったく違う、ということもある。「秋冬は保湿を増やす」という一般論は知っている。でもそれは本当に一般論で、私の肌に関していえば、秋の入り口よりも梅雨明け直後のほうが乾燥する。理由はわかっている。梅雨の間、肌が外気の湿気に頼りきっていて、自前の保水力をさぼっているからだ。梅雨が明けて急に乾燥した空気が来ると、準備のできていない肌がパニックを起こす。
これを「だから梅雨明け前から保湿を意識して」と言うのは簡単だ。でもそれが自分の肌に当てはまるかどうかは、その人が自分の肌の季節感を知っていなければ判断できない。肌には個人の「気候パターン」がある。私が感じる乾燥のピークと、別の人のそれは一致しないことのほうが多い。
ヘアメイクの仕事でいろんな人の肌に触れてきて、つくづく思うのは「人の数だけ気候がある」ということだ。ある俳優さんは真冬でも皮脂が多くて、夏のセオリーで整えたほうが仕上がりがきれいだった。別のモデルさんは夏でも極度の乾燥肌で、真冬の保湿ケアをベースに考えなければ崩れる。カレンダーの季節と、その人の肌の季節は別物だ。カレンダーを見てケアを決める人と、肌を見てケアを決める人の間には、大きな溝がある。
私は常に肌を見てケアを決める側だけれど、それを「こうすればいい」と伝えるには相手が自分の肌の季節を知っている必要がある。知らない人に「今あなたの肌は梅雨明けですか、それとも真冬ですか」と聞いても、たぶり首をかしげられる。だからまたここでも、「教える前に観察の仕方から教えないといけない」という関門が生まれて、気が遠くなる。嫌になるのはそういうときだ。
手の使い方だけで、肌は別物になる
製品の話ばかりになりがちなスキンケアの議論で、私が一番重要だと思っているのは実は「手の使い方」だ。これも教えにくい理由の一つで、手の感覚は文字で伝えることがほぼ不可能に近い。
化粧水をつけるとき、私は手のひら全体を使って肌に密着させる。押し込むのではなく、「包む」に近い感覚だ。温度を伝えながら、圧をかけすぎずに。そして指の腹ではなく手のひらの「膨らんでいる部分」を使う。これを人に説明しようとすると、どうしても「こういう形で」とやって見せる必要がある。文章では限界がある。「手のひらで包む」と書いても、強く押す人もいれば、ただ触れているだけの人もいる。その微妙な力加減と温度の伝え方に、実は大きな差がある。
現場でメイク前に肌を整えるとき、私は相手の肌に触れながら「この人の肌はどういう触られ方を好むか」を確かめる感覚がある。摩擦に弱い肌、圧に敏感な肌、温度変化に反応する肌——触ればわかる。でもそれは15年の現場経験が手のひらに蓄積されているから感じられることで、始めて半年の人が同じことをやろうとしても難しい。職人技に近い部分がある。
スキンケアを「使う製品」の問題だと思っている人に、「手の使い方が問題かもしれない」と言うと、驚かれることが多い。でも同じ製品を使っても、手の使い方で浸透度も肌状態も変わる。これは本当のことで、私が何年も確かめてきた事実だ。でも確かめ方を教えるのが難しいから、ここでもまた「教えたくない」の感情が顔を出す。雑に教えることで「そういうもんか」と誤解されるくらいなら、言わないほうがましだ、という気持ちになる。
スキンケアは「自分への敬意」の練習だと気づいてから、変わったこと
最終的に私が今のスキンケアに落ち着いた理由は、製品の進化でも知識の蓄積でもなく、「自分への敬意の練習」として肌のケアを位置づけ直したからだと思う。これは大げさに聞こえるかもしれないが、私にとっては本当にそういう感覚の転換があった。
ある時期、仕事が忙しくなるにつれて、スキンケアの時間がどんどん短くなっていった。「時間がないから仕方ない」という言い訳を自分に許していた。でもその「仕方ない」が積み重なるにつれ、肌だけでなく気持ちも少しずつ荒れていった。忙しさのせいにしていたけれど、実は「自分の状態を確認する時間」を削っていたことで、私は自分が今どういう状態にあるかを見失っていたのだと思う。
占いの仕事では、クライアントさんの状態を丁寧に読む。でも自分自身の状態を読む時間を取っていなかった。洗面台の前の数分間は、私が唯一「自分を鑑定する時間」でもあったのだと、後になって気づいた。肌の状態を読むことは、今日の自分の内側の状態を読むことと地続きだった。乾燥していれば「消耗している」サイン。炎症があれば「無理をしている」サイン。くすんでいれば「循環が滞っている」サイン。肌は、私が言語化できない自分の状態を、すでに外側に表示してくれていた。
その時間を丁寧に持つことは、自分の状態に「ちゃんと気づいてあげる」という行為だ。無視しない、ということだ。それを私は「自分への敬意」と呼んでいる。そしてその敬意の感覚を持てるようになってから、スキンケアが義務ではなく、一日の中でたった一人になれる静かな時間になった。だから余計に、軽く教えることが難しくなった。軽く扱ってほしくない、という気持ちが強くなったから。
スキンケアが好きか嫌いか、得意か苦手かという話ではない。自分の状態に向き合うことを、習慣として持てているかどうかという話だ。その習慣の中身は、人によって違っていい。でも「持つ」か「持たないか」には、大きな差がある。私がスキンケアを教えたくない本当の理由は、もしかするとそこにあるのかもしれない。製品を教えても、習慣は渡せない。習慣は、自分で育てるしかないから。
