「呪い」と呼ばれる前は、それは祈りだったこと。

ある夜、鑑定の後片付けをしながら、ふと手が止まった。
テーブルの上に広げたままのカードの中に、一枚だけ裏返しになって残っていた。
何のカードだったかは、もう覚えていない。
でも、その裏側の模様——深い紺色に金の星が散りばめられた、見慣れた布目——を見つめながら、私はしばらく動けなかった。
祈りと呪いは、どこから別れるのだろう、と。
その問いが、静かに部屋に満ちていった。

目次

祈りは、最初から祈りではなかった

人が最初に神に手を伸ばすとき、それは必ずしも美しい形をしていない。
膝をついて目を閉じて、静謐な言葉で天に語りかける——そんな洗練された姿は、おそらく何度もの傷と失敗の後に磨かれていくものだ。
最初の祈りは、もっとぐしゃぐしゃしている。
涙が混じっていたり、怒りが混じっていたり、あるいは憎しみに限りなく近い何かが混じっていたりする。

私がこの仕事を始めた頃——今から15年以上前のことだ——ある女性が鑑定にやってきた。
当時の私はまだ小さなスペースで細々と鑑定をしていて、彼女はネットで見つけて来てくれた初期のクライアントのひとりだった。
彼女は開口一番、「呪いをかけたいんです」と言った。
静かな声だった。怒鳴ったわけでも、泣きながら言ったわけでもなかった。
ただ、その静けさの奥に、どれだけのものが積み重なっているかは、カードを切り始めた瞬間にわかった。

相手は、彼女の大切なものを踏みにじった人間だった。
詳細は伏せるけれど、それは理不尽な話で、どう聞いても彼女の側に非があるとは思えなかった。
傷ついて、それでも立ち上がろうとして、それでも届かなくて——そうした積み重ねの果てに、彼女が辿り着いた言葉が「呪い」だった。
でも私は、そのとき思った。
これは呪いの形をした祈りだ、と。

彼女が本当に求めていたのは、相手を滅ぼすことではなかった。
自分が受けた痛みを、誰かに「本物だった」と認めてもらうことだった。
あなたは間違っていない、あなたは傷ついていい、あなたのその苦しさは正当だ——そう言ってもらうための言葉として、「呪い」という激しい形を借りるしかなかったのだと、今でも思っている。
祈りが届かないとき、人は叫ぶ。そして叫びに形を与えようとするとき、呪いの言葉を選ぶことがある。

「届かなかった祈り」が変容していくこと

西洋占星術を学ぶ中で、冥王星という天体について考えることが多い。
冥王星は変容と破壊と再生を司るとされる。
その動きは遅く、人の一生をかけてじわじわと何かを変えていく。
そして冥王星が示すものの中に、「蓄積されたエネルギーの爆発」という概念がある。
長く抑え込まれていたものが、ある臨界点を超えたとき、形を変えて噴出する。

祈りもまた、同じ構造を持つことがある。
届かないまま積み重なった祈りは、いつしか変容する。
最初は「どうか助けてください」だったものが、「なぜ助けてくれないんですか」に変わり、「もういい、自分でやる」になり、そして「あなたにひどい目に遭わせてやる」という形にまで変わっていく。
変容のプロセスそのものは、どこかの時点で「間違い」に踏み込んでいるように見える。
でも、その源流を辿れば、それは必ず誰かの切実な祈りに行き着く。

人を傷つけることを肯定したいわけではない。
誤解しないでほしいのだけれど、私が言いたいのはそういうことじゃない。
ただ、「呪い」と呼ばれるものの多くは、誰かが誰かに届けようとして届かなかった祈りの残骸だということ。
それを知らずに「呪い」と切り捨てることは、祈りごと捨てることになる。
そしてそれは、その人の痛みを二度消すことになる、と私は思っている。

鑑定の場に長くいると、言葉の地層のようなものが見えてくる。
表面の言葉の下に、別の言葉が埋まっている。
「あの人を不幸にしたい」という言葉の下に、「私の苦しさを知ってほしかった」がある。
「全部壊れてしまえばいい」という言葉の下に、「もうこれ以上耐えられない」がある。
カードはそういう地層を、静かに可視化してくれる。
言葉にできないものを、絵として並べてくれる。
だから私は、表面の言葉だけでなく、その下を見ようとする。

魔女と呼ばれた女たちのこと

ヨーロッパの魔女裁判の歴史を調べたことがある。
正確には、調べるというより、ずっと気になっていたものを、ある時期に集中して読み込んだ。
15世紀から18世紀にかけて、何万人もの人が魔女として処刑された。
その多くは女性だった。
そして「魔女」とされた理由の多くは、今の目線で読むと、どれも理不尽なものばかりだった。

薬草の知識を持っていた。
ひとりで生きていた。
男性の言うことを聞かなかった。
不思議な力があると噂された。
そういった理由で、彼女たちは「魔女」として断罪された。
でも逆に言えば、彼女たちが持っていたのは、生き抜くための知恵と、自分の意志と、自然への敬意だった。
それが脅威に見えた側が、「魔女」という言葉を使って封じ込めた。

私が「魔女の独り言」というカテゴリでものを書くとき、いつもこのことを思っている。
魔女と呼ばれた女たちが最初から呪いを使おうとしていたわけではない。
彼女たちの多くは、ただ祈っていた。
土地の恵みを祈り、家族の安全を祈り、季節の巡りを祈り、自分の心が折れないように祈っていた。
その祈りが、力を持っていたから——あるいは、力を持っていると見なされたから——「呪い」として糾弾された。

祈りは、権力にとって都合が悪い場合がある。
誰かが「神様ではなく、自分の内側にある力を信じる」ことは、その時代その社会の権威構造を揺るがすことがある。
だから「魔女」という言葉は、その祈りを「呪い」に変換するための装置として機能した。
名前を変えることで、本質を変えようとした。
でも本人の中では、最後まで、それは祈りだったと思う。

言葉が「呪い」になる瞬間のこと

「呪」という漢字を分解すると、「口」と「兄(のびた形)」から成るという説がある。
「祝」の字も同じ構造を持つ。
つまり、呪いと祝い——curse と blessing——は、もともと同じ根っこを持つ言葉だった。
声に出すこと、言葉を発すること、それ自体が呪であり祝であり、両方の力を持っていた。

言葉は、放たれた瞬間から独立して動き始める。
書いた人の手を離れた文章のように、発した人の口を離れた言葉は、独自の軌跡を描く。
そしてその軌跡が誰かに届いたとき、届いた側の受け取り方によって、それは「祝い」にも「呪い」にもなる。
同じ言葉が、ある人には励ましになり、ある人には深く刺さる棘になる。

私はライターという仕事も並行してやっているから、言葉の怖さは身に沁みて知っている。
ある媒体に寄稿した文章が、ある読者には「救われた」と言われ、別の読者には「傷ついた」と言われることがある。
どちらも本当のことで、どちらの気持ちも否定できない。
同じ文字の並びが、まったく逆の作用を持つ。
それが言葉の本質だと、私は思っている。

だから「呪い」と「祈り」の境界は、言葉そのものの中にあるのではなく、言葉が届いた先で決まることが多い。
本人は愛を込めて発した言葉が、受け取った側には支配の言葉に聞こえることがある。
本人は傷ついて怒りに任せて放った言葉が、受け取った側には奇妙なほど正確に核心を突いた言葉として残ることがある。
意図と着地は、必ずしも一致しない。
それは、祈りが呪いと呼ばれる理由のひとつだ。

自分自身にかけてきた「呪い」のこと

他人に向けられる言葉の話ばかりしてきたけれど、一番長く続く呪いは、自分自身にかけるものだと私は思っている。
そしてそれもまた、最初は祈りだった。

私が占いの仕事を始めたばかりの頃、自分に言い聞かせていた言葉がある。
「ちゃんとしなければいけない」「もっと努力しなければいけない」「まだ足りない」。
それは最初、ただの向上心だった。
良くなりたい、上手くなりたい、人の役に立ちたい——純粋な祈りの形をしていた。
でもある時期、気づいた。
これはもう祈りじゃない、と。

「ちゃんとしなければいけない」という言葉は、いつしか「ちゃんとできない自分はいてはいけない」に変わっていた。
「もっと努力しなければいけない」は、「今の自分では足りない、今の自分には価値がない」になっていた。
「まだ足りない」は、「どこまでいっても私は足りない存在だ」になっていた。
向上心が、いつの間にか自己否定の連鎖になっていた。
最初の祈りが、自分への呪いになっていた。

ある冬の朝、鏡の前で自分の顔を見て、ひどく疲れた目をしていると思った。
ヘアメイクアーティストとして人の顔を見続けてきたから、表情の変化には敏感だ。
その日の自分の目には、疲れだけでなく、怖さがあった。
何かに追われているような、足りない自分に追いつかれるのを恐れているような目。
それを見て、初めて「私は自分に呪いをかけていたんだ」と気づいた。
そしてその呪いの源泉を辿ったら、かつての祈りがあった。

この経験は、クライアントを見るときの目を変えた。
人が自分を苦しめているように見える信念や言葉は、よく見ると、かつて自分を守るために必要だったものの変容であることが多い。
「自分を傷つけてはいけない、傷つけられてはいけない」という防衛の祈りが、「誰も信じてはいけない」という呪いになっていく。
「失いたくない」という愛の祈りが、「手放すくらいなら壊してしまえ」という呪いになっていく。
変容のプロセスを、やさしく解きほぐすことが、私の仕事の一部だと思っている。

タロットが見せてくれる、変容の手前のもの

タロットカードの中に、「月」のカードがある。
大アルカナの18番。
深い夜の中に満月が浮かび、その下に犬と狼が月に向かって吠えている。
手前には水辺があり、そこから何か甲殻類のようなものが這い上がってくる。
このカードは、混沌、幻想、潜在意識、不安、変容の手前、といった意味を持つとされる。

私がこのカードを見るとき、いつも思うことがある。
水の底から這い出てくるもの——それは恐怖かもしれないし、抑圧されてきた感情かもしれないし、かつての祈りかもしれない。
月の光の下では、昼間ははっきり見えているものが曖昧になり、逆に昼間は見えなかったものが浮かび上がる。
「月」のカードが示す時期は、見えないものが見える時期だ。
そしてその「見えないもの」の中に、変容する前の祈りが眠っていることが多い。

鑑定でこのカードが出たとき、私はクライアントに「今、何かが水の底から上がってこようとしていますね」と言うことがある。
それは脅しでも警告でもなくて、単純な観察だ。
何かが変容しようとしている。
その変容が怖いかもしれないけれど、変容しようとしているものの正体を知ることが最初のステップだ。
そしてその正体を辿ると、多くの場合、呪いではなく祈りに行き着く。

あるクライアントが、「死にたいという気持ちが出てくるのが怖い」と話してくれたことがある。
私は占い師であって、カウンセラーでも医師でもないから、適切な専門家への橋渡しを必ずするけれど、そのとき彼女と話しながら、カードを展開しながら、見えてきたことがあった。
彼女の「死にたい」は、死を望んでいるのではなかった。
「今のこの苦しさが終わってほしい」という祈りだった。
「別の場所に行きたい」という祈りだった。
言葉の表面では「死」を言っているけれど、その下にあるのは、「生きることを諦めたくない」という強烈な祈りだった。
月のカードは、そういう深い層を照らし出す。

呪いを解くことと、祈りに還すこと

「呪いを解く」という言い方をすることがある。
自己肯定感を縛っている信念を解く。
親から受け継いだパターンを解く。
過去の経験から形成された恐れを解く。
でも「解く」というのは、消すこととは違う。

編み物をほどくときのことを想像するといい。
複雑に絡まった毛糸を、一気に引っ張ってほどこうとすると、もつれが強くなったり、糸が切れたりする。
丁寧に、少しずつ、どこで絡んでいるかを確認しながら、ゆっくりとほどいていく。
そうすることで、糸は使えるものとして戻ってくる。
呪いを解くことも、それに近い。
一気に消し去るのではなく、もともとそれが何だったかを確認しながら、ゆっくりと解いていく。

「解かれた呪い」は、どこへいくのか。
私は、祈りに還ると思っている。
「ちゃんとしなければいけない」という呪いは、解かれると「よくなりたいという気持ちは本物だった」という祈りの形に戻る。
「誰も信じてはいけない」という呪いは、解かれると「誰かを信じたかった、信じられる場所が欲しかった」という祈りに戻る。
呪いを解くことは、祈りを救うことでもある。

これは抽象的な話ではない。
鑑定の場で実際に起きることだ。
話し始めたときに「自分はどうせ何をやってもダメだ」と言っていた人が、カードを展開し、言葉を交わしながら、少しずつ別の層に辿り着く瞬間がある。
「本当は諦めたくなかった」とか、「誰かに期待してほしかった」とか、そういう言葉が出てくる。
その瞬間、部屋の空気が変わる気がする。
呪いが祈りに戻っていく、あの感覚。
15年この仕事をしてきて、それが一番尊い瞬間だと思っている。

受け取られなかった祈りの、その後のこと

祈りが呪いに変わるのは、受け取られなかったからだ、というのが私の考えだ。
誰かに届けようとした祈りが、届かなかった。
何かに向けて捧げた祈りが、応えられなかった。
自分の内側で静かに続けてきた祈りが、ある日限界を超えた。
受け取られなかった祈りは、行き場を失う。そして行き場を失ったエネルギーは、形を変える。

子どもの頃に親に愛してほしかったという祈りが、受け取られないまま大人になると、愛を求めることへの怒りになることがある。
「なぜ愛してくれなかったんだ」という怒りは、時に親への呪いになり、時に自分への呪いになり、時にパートナーへの過度な要求になる。
その人が悪いのではない。
祈りが届かなかっただけだ。
でも、行き場を失った祈りは、どこかに着地しなければならなくて、それが呪いという形になることがある。

この構造を知ってから、私は人の「呪い」を見るとき、怖くなくなった。
怖くなくなったというのは正確じゃないか——怖さの質が変わった、というほうが近い。
以前は、呪いの言葉を聞いたとき、その言葉の表面に怖さを感じていた。
今は、その言葉の奥にある、受け取られなかった祈りに、胸が痛くなる。
それは怖さとは違う感覚だ。

人を傷つける言葉を発する人の多くは、かつて深く傷ついた人だ。
呪いをかけようとする人の多くは、かつて必死に祈っていた人だ。
この逆説を、どこかに持っておくことが大切だと思っている。
それは免罪符ではない。傷つけることが許される理由にはならない。
でも、呪いの形をしたものの中にある祈りを見ることができれば、対話の糸口が生まれる。
そして糸口があれば、変わることができる。

今も続いている、静かな祈りのこと

Atelier Varyを始めたとき、私には大きな「呪い」があった。
と言っても、誰かにかけられたものではなく、自分で育ててきたものだ。
「占いは胡散臭いと思われる仕事だ」という信念。
「女性が自立して仕事をすることへの、見えない壁」というもの。
「私が本気で信じていることを、信じていいのかわからない」という迷い。
これらはすべて、最初は祈りだった。
きちんと見てもらいたい、正当に評価されたい、自分の信じるものを大切にしたい——そういう祈りだった。

地上波のテレビに呼ばれるようになったとき、複雑な気持ちがあった。
嬉しかった。認められた気がした。でも同時に、「これでやっと信じてもらえる」と思っている自分に気づいて、少し落ちた。
地上波に出なければ信じてもらえないと、どこかで思っていた。
その「どこかで思っていた」が、祈りの変容したものだった。
本当に届けたい人に、ちゃんと届いてほしいという祈りが、「社会的な承認がなければ届かない」という恐れに変わっていた。

企業顧問の仕事も引き受けるようになって、占いという仕事の射程が広がっていくにつれて、あの呪いは少しずつ解けていった気がする。
解けたというのは、消えたということではない。
「ちゃんと届けたい」という祈りの形に、少しずつ戻っていった、という感覚だ。
承認されることへの渇望が、純粋な「伝えたい」という気持ちに近づいていった。
それが呪いを解くことだと、実感として知っている。

今も、祈っている。
この仕事が、本当に必要な人に届いてほしいと祈っている。
カードを展開するたびに、この人の人生に少しでも光が差し込んでほしいと祈っている。
ブログを書くたびに、この言葉が誰かの「受け取られなかった祈り」に触れてほしいと祈っている。
それが呪いになっていないかは、時々確認が必要だけれど。
祈りと呪いの境界線は、いつも思ったより細い。

それでも私は、祈りの側に立ちたい

冒頭の話に戻る。
裏返しになったカードを見つめて動けなかった、あの夜のこと。
その後、私はカードを拾い上げて、ゆっくり表を向けた。
何のカードだったかは覚えていないと書いたけれど、本当は覚えている。
「塔」のカードだった。

大アルカナの16番。
落雷を受けて崩れ落ちる塔から、人が落ちていく絵。
崩壊、突然の変化、基盤の喪失、強制的な変容——そう説明されることが多い、怖がられやすいカードだ。
でも私は、このカードが好きだ。
崩れるものは、もともと脆かった。
あるいは、崩れなければ、その先にある空が見えなかった。
「塔」は破壊のカードではなく、変容の入り口のカードだと私は思っている。

呪いもまた、変容の入り口だ。
誰かが呪いの言葉を使うとき、それは変容が起きようとしているサインかもしれない。
積み重なった祈りが、もう今の形では抱えきれなくなって、別の形を求めているサインかもしれない。
だとすれば、呪いを前にして必要なのは、怖れることでも裁くことでもなく、その下にある祈りを探すことだ。

15年この仕事をしてきて、一つだけ確かだと思っていることがある。
人は祈ることをやめない。
どんなに傷ついても、どんなに諦めても、どんなに「もう祈るものか」と思っても、また祈り始める。
その祈りが形を変えて呪いになっても、その根っこにあるのは、よくなりたいという、繋がりたいという、生きていたいという、根源的な意志だ。
私は、その意志の側に立ちたい。
呪いと呼ばれるものの中に、祈りを見つけ続けたい。
それが、魔女と呼ばれてきた女たちへの、私なりの敬意の表し方だと思っているから。

あなたが今、誰かに向けている言葉の、その一番下を、ゆっくり掘り返してみてほしい。

季節の変わり目に、祈りを棚卸しすること

毎年、秋の終わりになると決まってやることがある。
手帳を一冊引っ張り出して、その年に自分が発した言葉を思い返す。
口に出した言葉ではなく、心の中で繰り返してきた言葉。
誰かに言えなかった言葉。
言葉にならなかったけれど、ずっと胸の奥で反響していた言葉。
それをざっくりと書き出して、「これは祈りか、それとも呪いに変わっているか」を、静かに仕分けする。

これは占術的な儀式ではなく、ただの習慣だ。
特別な道具もいらない。
静かな夜に、あたたかい飲み物を一杯用意して、ノートを開く。それだけでいい。
でも毎年やってみると、必ずひとつかふたつ、「あ、これはもう呪いになっていたな」というものが出てくる。
今年よく繰り返していた言葉の中に、「どうせ伝わらない」というものがあった。
それを書き出して眺めたとき、これは最初、「ちゃんと伝えたい」という祈りだったと気づいた。
いつの間にか、伝えることを諦めるための言葉に変わっていた。

棚卸しをするとき、自分を責めないことが大切だと思っている。
「また呪いにしてしまった」ではなく、「祈りがここまで積み重なっていたんだな」と見る。
積み重なったということは、それだけ大切にしてきたということだ。
諦めきれなかったということだ。
呪いに気づくことは、諦めきれなかった自分に気づくことでもある。
だから私は、この作業を自己批判ではなく、自分への聞き取りとして位置づけている。
あなたはまだ、何を大切にしているか。あなたはまだ、何を祈っているか。

他者の祈りを、受け取るということ

祈りが呪いに変わる理由のひとつに、「受け取られなかった」ということを書いた。
ならば逆に、誰かの祈りを受け取ることは、その祈りが呪いに変わることを防ぐことになる。
これは大げさな話ではなく、日常の中に無数に転がっている話だ。

あるとき、鑑定の後に、クライアントが帰り際にぽつりと言った。
「話を聞いてもらえるとは思っていなかった」と。
その言葉が、ずっと残っている。
彼女が言ったのは「占ってもらえるとは思っていなかった」ではなかった。
「聞いてもらえるとは思っていなかった」だった。
その差に、すべてがある気がした。
彼女が来たのは、答えが欲しかったからではなく、誰かに祈りを受け取ってもらいたかったからだ。

受け取るというのは、同意することでも、賛成することでも、解決することでもない。
ただ、「あなたがそう感じていること、私は知った」と伝えること。
それだけで、祈りの多くは呪いに変わらずに済む。
でも現代は、受け取ることが下手な時代だと私は感じている。
何かを言われると、すぐに答えを出そうとする。
解決策を探す。アドバイスをする。あるいは、自分の話に引き込む。
「あなたの祈りを、そのままここに置いておいていい」と言える場所が、あまりにも少ない。

タロットの場が持つ力のひとつは、そこにあると私は思っている。
カードを広げることで、「あなたの話を聞く時間がここにある」という場が、物理的に作られる。
カードという媒介があることで、話しにくいことが話しやすくなる。
自分の口から言えないことを、カードが代わりに出してくれる、という感覚を持つクライアントも多い。
それはカードに神秘的な力があるからだけではなく、「受け取られる場所がある」という安心感が、言葉を引き出すからだと思っている。
祈りは、受け取られる場所があると知ったとき、やっと声を持つ。

祈りの言葉を、自分に返す練習

最後にひとつ、私が個人的に続けていることを書く。
誰かを傷つけたいとか、誰かを呪いたいとか、そういう気持ちが自分の中に生まれたとき——そういう気持ちは誰の中にも生まれる、生まれて当然だ——私はまず、その言葉を一度止める。
止めて、「この言葉の一番最初の形は何だったか」と問いかける。

「あの人に罰が当たればいい」と思ったとする。
その言葉を止めて、問い返す。
なぜそう思う?
傷ついたから。
なぜ傷ついた?
大切にしてほしかったから。
なぜ大切にしてほしかった?
あなたのことを大切に思っていたから。
——辿り着いた先にあるのは、「大切に思っていた」という祈りだ。
「罰が当たればいい」と「大切に思っていた」は、同じ根っこを持っている。

この作業は、相手を許すためにやるのではない。
許せなくていい。
傷ついた事実は変わらない。
でも、自分が何を失ったのかを知るために、この問い返しをする。
自分がどれだけ祈っていたかを、自分に教えてあげるためにやる。
呪いの形をした感情を、無理に消そうとするのではなく、その下にある祈りを見つけ、その祈りを自分自身が受け取ってあげる。
他の誰かに受け取ってもらえなかった祈りを、自分が最初に受け取る。
それが、呪いを祈りに還す、一番地道で、一番確かな方法だと、私は思っている。

呪いと呼ばれているものの中で、まだ声を持てずにいる祈りが、あなたの中にもあるかもしれない。

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