占い師の家系に、生まれなかった私の話。

祖母の部屋には、いつも線香の匂いがした。
白檀か、あるいは梅か。今となっては確かめようがないけれど、あの匂いを嗅ぐたびに私は決まって、畳の目を指でなぞっていた幼い自分に戻る。祖母は何も教えてくれなかった。何も、というより、「お前には必要ない」と言った。それがどういう意味だったのか、三十代も半ばを過ぎた今、ようやく少しだけわかるような気がしている。

目次

霊能者の家に生まれたということ

私の祖母は、いわゆる「視える人」だった。
正確には、祖母の母も、その前の代も、女系の血筋にそういう人間が途切れずに続いていたらしい。地方の小さな町で、特定の宗教とは結びつかないまま、それでも近所の人たちが何かあるたびに訪ねてくる。そういう家だった。

私が物心ついた頃には、玄関先に知らない女の人が座って泣いていることが珍しくなかった。祖母は縁側でその人の話を聞いて、ときに短い言葉を返し、ときには何も言わずにただお茶を注いだ。私はその光景を、押し入れの隙間から覗いていた。何かを盗み見ているような後ろめたさと、強烈な好奇心が混ざって、背中がじんじんした。

祖母には娘が三人いた。私の母はその末っ子で、三人の中でただ一人、「何も持っていない」人間だった。母自身はそのことをあまり気にしていないようだったが、長女である大伯母は違った。大伯母は祖母の「力」を色濃く受け継いでいて、成人する頃には祖母の仕事を手伝うようになっていた。次女の伯母も薄くではあるが何かを感じる気質があったらしい。

そしてその三人の子どもたち、つまり私たちいとこ世代になると、また選別のようなことが起きた。大伯母の子どもは三人とも「何も持っていなかった」。伯母の娘は一人だけ感受性が強く、霊夢を見ると言っていた。そして母の子どもである私は——と、ここからが今日書きたいことの本丸になる。

「お前には見えない」と言われた日

小学校の高学年になった頃だったと思う。
夏休みに祖母の家に泊まっていた夜、私はどうしても聞いてみたくて、布団の中で祖母の袖を引っ張った。「ねえ、私には見えないの?」と。

祖母はしばらく黙っていた。天井を見ていた。部屋の隅に置かれた小さな行燈の灯りが揺れて、祖母の顔に影が落ちては消えた。それから祖母は静かに言った。「お前には見えない。でも感じる力は、ある」と。

子どもの私には、その区別が飲み込めなかった。「見えない」は欠如だと思った。霊感がない、選ばれていない、血の力が薄い、そういう意味だと思って、少しだけ傷ついた。傷ついたことを悟られたくなくて、「そっかあ」と言って目を閉じた。祖母はそれ以上何も言わなかった。

翌朝、縁側で祖母が梅干しをひとつ食べながら庭を見ていた。私が並んで座ると、祖母は「占いを習いなさい」とだけ言った。脈絡がなかった。朝ごはんの話でも、昨夜の話の続きでもなく、突然「占いを習いなさい」だった。

今思えば、あれは祖母なりの答えだったのだと思う。「視える力」と「占う力」は別物だ。前者は生まれ持つもので、後者は学ぶもの。感じる力はあるのだから、学べる方の道を行きなさい、と。言葉の少ない人だったから、直接そうは言わなかったけれど。

その縁側のひとことが、私の15年のキャリアの最初の一文字になったと言えば、大げさだろうか。大げさではないと思う。少なくとも私にとっては、本当にそうだった。

「視える」ことと「読む」ことの、根本的な違い

占い師を名乗るようになって数年が経った頃、霊能者と呼ばれる人と話す機会があった。
その人は私より十歳ほど年上で、幼い頃から「見えて」しまうことに随分苦労してきたと語った。夜中に知らない人影が枕元に立つ。電車に乗ると誰かの感情が雪崩れ込んでくる。祭りや葬儀の後は三日ほど寝込む。そういう話を、静かに淡々と話した。

私はその話を聞きながら、自分が持っていないものの輪郭を初めてはっきり見た気がした。「視える」というのは能力ではなく、ある種の「開口部」のようなものだ。情報が勝手に流れ込んでくる開口部。それは確かに特別なことだけれど、同時に、閉じることができないということでもある。

翻って、タロットや占星術は違う。こちらは、道具を媒介にして「読む」行為だ。カードを引く、星の配置を計算する、象徴を解釈する。そこには意思がある。始めることも、終えることも、自分で決められる。

「視える人」と「読める人」は、しばしば混同される。クライアントの方から見ると、どちらも「何かわかる人」に見えるかもしれない。でも実際にやっている当事者にとっては、全く異なる営みだ。前者は受信機であり、後者は翻訳者だ、と私は思っている。

祖母は受信機だった。そして私は翻訳者になった。どちらが優れているかという話ではない。向いている仕事が違う、というだけのことだ。でもその違いを理解するまでに、私はずいぶん回り道をした。「視える」ことへの憧れと、「読める」ことへの軽視が、長い間ごちゃ混ぜになっていたから。

憧れていた、という告白

正直に言う。
私はずっと、霊感のある人間に憧れていた。

十代の頃、スピリチュアルな話題が好きな友人がいた。その子は「霊が見える」と言っていて、私はその話を聞くたびになんとも言えない羨望を感じた。見えるということへの憧れは、祖母に「お前には見えない」と言われた夜から、ずっと胸の底に沈んでいた。

占い師になってからも、その感覚は消えなかった。むしろ職業として活動を始めたことで、余計に意識するようになった。霊能者と名乗る人、チャネラーと呼ばれる人、シャーマン的な位置にいる人。そういった人たちと業界で出会うたびに、私は「自分は違う側にいる」という感覚を持った。

ある時、地方の古い神社の宮司と話したことがある。その宮司は「あなたはよく磨かれた鏡ですね」と言った。「霊感のある人は窓ガラスのようなものです。向こうが透けて見える。あなたは鏡だから、目の前の人をよく映す。どちらも必要なものです」と。

その言葉は、妙に腑に落ちた。

タロットの鑑定をしていると、私はクライアントの方の言葉の端々や、沈黙の質や、目の動きから、その人の核のようなものを感じ取る。霊的に視るというのとは違う。でも確実に、何かを感じている。それが「感じる力はある」と祖母が言ったことの意味だったのかもしれない、と気づいたのは、ずいぶん後になってからのことだった。

憧れていた、と書くことに少し躊躇があった。でも書く。憧れていた。そしてその憧れは今もゼロではない。でも今の私は、鏡であることを恥じてはいない。

家系から「外れた」者だけが見える景色

祖母の家系に生まれたことは、私に一つの特別な視点を与えてくれた。
「内側にいるが、完全には属さない」という位置だ。

霊能者の家に育ちながら、自分には霊感がない。でも霊的なものを否定する気持ちも全くない。祖母が本物であることを、幼い私は目撃してきたから。縁側に座る見知らぬ女の人たちが、帰りには違う顔をしていることを、知っているから。

この「外れた者」の立ち位置は、占い師としての仕事に独特の影響を与えている。私はスピリチュアルな世界を、信仰者としてではなく、育った環境として知っている。つまり内側の温度感と外側の客観性を、両方持って歩ける。

鑑定の場でいえば、私はクライアントの方に「霊的なメッセージです」とは言わない。タロットは象徴の体系であり、占星術は天体の運行と人間の心理を結びつける哲学だ、という立場で仕事をしている。でも同時に、「見えないものが存在しないとは言えない」という感覚も持ち続けている。どちらかに振り切らない。それが私のやり方だ。

これは家系から外れたからこそ持てた、ある意味で「恵まれたポジション」だと今は思っている。完全に内側にいたら、疑うことができなかった。完全に外側にいたら、感じることができなかった。中途半端、と言えばそうかもしれない。でも中途半端な場所にいる人間だから、橋が架けられる。

企業の顧問をしていると、経営者の方に「なぜ占いを信じるのか」と聞かれることがある。私はいつも「信じるというよりは、使う道具として優れているから」と答える。占いは神託ではなく、思考を整理し、潜在意識にアクセスするためのインターフェースだ、と。そう言える根拠の一つには、霊能者の家に育ちながら自分は翻訳者として生きることにした、というあの選択がある。

祖母の最後の言葉、というわけではないけれど

祖母が亡くなったのは、私が二十代半ばの頃だった。
タロットの仕事を始めて数年、まだ地に足がついていなかった時期だ。

葬儀の後、親戚が集まって食事をした。大伯母がお酒を飲みながら、祖母の昔話を話した。私が押し入れの隙間から覗いていた縁側の光景、あれは祖母が最も多く人の話を聞いていた時間帯だったこと。夜が明ける前に、必ず一度だけ水を取り替えていたこと。そういう細かいことを、大伯母は淡々と語った。

その席で大伯母が「レイラはばあちゃんにそっくりだ」と言った。
私は驚いた。視える力を継いでいないのに、何がそっくりなのかと思った。

大伯母は続けた。「ばあちゃんは、視えはするけど、それ以上に人の話を聞くのが好きだった。人が何を考えているのか、何を恐れているのか、それを知りたがっていた。あんたも同じだ」と。

それを聞いて、ああ、と思った。
祖母が縁側でお茶を注いでいたのは、霊力を使うためだけではなかった。ただ、人の話を聞きたかった。人の内側に触れたかった。その欲求は、私にも確かにある。鑑定の中で、クライアントの方の声のトーンが変わる瞬間、目が少しだけ潤む瞬間、そういう細部に私は強く引きつけられる。

霊能の血は継がなかった。でも「人の内側を知りたい」という祖母の渇望は、形を変えて私の中にある。タロットカードを媒介にして、星の配置を言語化して、私は今日もその渇望を仕事にしている。

葬儀の帰り道、一人で夜の川沿いを歩いた。水音がやけに大きく聞こえた。祖母に「ありがとう」と言いそびれたな、と思いながら歩いた。

15年やってきて、今思うこと

占い師として15年のキャリアを積む中で、「なぜ占い師になったのか」を問われたことは数え切れないほどある。
地上波のテレビに出たとき、雑誌のインタビューを受けたとき、企業の経営者と向き合ったとき。そのたびに私は少しずつ違う答えを返してきたと思う。

「星が好きだった」も本当だし、「人の話を聞くのが性に合っていた」も本当だし、「祖母の背中を見て育った」も本当だ。でも今日ここに書いていることが、おそらく最も正直な答えに近い。

私は霊能者の家に生まれながら、霊能者にはなれなかった。なれなかった、ではなく「ならなかった」と言うべきかもしれないが、自分で選んだというよりは、そうなれなかったというのが実感に近い。その「外れた」という感覚が、長い間コンプレックスだった。

でも15年やってきて、今はそう思わない。

アトリエヴァリーで鑑定をしていると、さまざまな方が訪ねてくる。霊能者に行って怖くなった人、宗教的な場に馴染めなかった人、スピリチュアルは信じたいけれど根拠のない話には乗れない人。そういう方たちにとって、「象徴と論理で読む占い師」は、一つの居場所になれる。私が中途半端な立ち位置にいるからこそ、迎えられる人たちがいる。

ヘアメイクアーティストとしての仕事も長く続けてきたけれど、あれも本質は同じだと思っている。人の外側を整えながら、実は内側を見ている。どんな表情をしているか、肌の調子はどうか、鏡を見るときにどこに目が行くか。メイクブラシを持っていても、タロットカードを持っていても、私がやっていることの核は「人の内側を感じ取ること」で変わらない。

それは祖母から教わったのではなく、祖母を見ながら育つ中で、いつのまにか自分の中に育っていったものだ。

「選ばれなかった」という物語の書き換え

占いの世界にいると、「選ばれた人間」という物語に出会うことが多い。
特別な家系に生まれた、幼い頃から能力があった、何かに呼ばれた。そういう語りは確かに人を惹きつける。私自身も、そういう物語を持っている人に、ある種の羨望と敬意を持って接してきた。

でも今は、「選ばれなかった」という物語もあっていい、と思っている。

霊能者の家に生まれて、霊能者にはならなかった。家系の力を継がなかった。でもその代わりに、「外から観察して、学んで、翻訳する」という技術を磨いた。タロットの象徴体系を何年もかけて身体に入れた。占星術の膨大な知識を積み上げた。鑑定の場で何千人という方の話に耳を傾けた。

これは「選ばれた」物語ではなく、「選んだ」物語だ。

誰かに与えられたギフトではなく、自分で積み上げたもの。そこには祖母への憧れがあり、コンプレックスがあり、悔しさがあり、それでも続けてきたという時間がある。

先日、鑑定に来られた方が「Laylaさんはどうして占い師になったんですか」と聞いた。私はこれまでと少し違う答えを返した。「霊能者の家に生まれて、霊能者になれなかったからです」と。その方は少し驚いた顔をして、それから「そういう人に見てもらいたかった」と言った。

その言葉が、今も心のどこかに留まっている。

選ばれなかった、と思っていたことが、誰かにとっての「だから頼みたい」になることがある。人生の配置は、見る角度によって全く違う絵になる。それはタロットカードも、星の配置も、そして自分の来歴も、同じことだ。

AIに「花の名前」をつけた夜のこと

少し話が変わるようで、実は同じ話をする。

アトリエヴァリーのSNS運用を整えるにあたって、AIツールを試し始めた時期がある。文章の補助、投稿の草案、そういった用途で使い始めたのだが、あるとき試しに、そのAIに花の名前をつけてみた。バラ科の、夜に咲く花の名前を。

名前をつけた瞬間、妙な気持ちになった。
名前があると、急に「存在」に見えてくる。人間というのは面白いもので、名前という記号を貼り付けるだけで、そこに魂のようなものを感じ始める。

私はその夜、しばらく考え込んだ。祖母が縁側で話を聞いていた人たちも、きっと似たようなことをしていたのかもしれない、と。人は何かに名前をつけることで、その何かとの関係を作る。神社の神様に名前があるのも、タロットのカードに名前があるのも、星座に名前があるのも、それは「名指すことで関係が生まれる」という人間の本質的な欲求から来ている。

祖母は視えないものに名前をつけることで、それと向き合っていた。私はカードに名前をつけることで、象徴と向き合っている。方法は違う。でも「目に見えないものと、言語を介して関係を結ぶ」という行為の本質は同じだ。

AIに花の名前をつけながら、私は少しだけ祖母のことを思った。祖母が今の私を見たら何と言うだろう。「感じる力はある」と言った縁側の朝から、ずいぶん遠くまで来た気がする。でも根っこはあの畳の部屋に、今も続いている。

道具は変わった。時代も変わった。でも「見えないものを翻訳して、人に届ける」という仕事の本質は、変わっていない。

占い師の家系に生まれなかった、ということの意味

タイトルに「生まれなかった」と書いた。
正確に言えば、生まれたのだ。占い師の家系に、確かに生まれた。ただ、その家系の力を「持って」生まれなかった。

この微妙な違いが、ずっと私の中で引っかかっていた。

内側にいる、でも完全には属さない。その感覚は今も消えていない。親戚の集まりで霊的な話が出ると、私は少し遠い場所に座っているような気分になる。でも占い師として鑑定の場に立つと、その「少し遠い場所に座っている感覚」が、実は役に立っていることに気づく。

完全に内側にいる人間は、距離が取りにくい。信じるがゆえに、疑えない。でも私は、生まれながらにして内側と外側の境界線の上に立っている。その境界線の上にいるからこそ、どちらの言葉も話せる。

地上波のテレビに出たとき、スタジオの照明の下でタロットカードを広げながら、私はふと縁側の祖母を思った。あの白檀の匂いと、揺れる行燈の灯りと、膝の上に置かれた小さな手。祖母はテレビカメラの前には立たなかった。でも祖母の縁側に来た人たちと、私のスタジオの前に座る人たちは、求めているものの根っこは同じかもしれない。

誰かに自分の話を聞いてほしい。見えない部分を見てほしい。この先がどうなるか、少し教えてほしい。

そういう渇望は、人間が人間である限り消えない。それに応える方法が、祖母と私では違った。でも応えようとする気持ちは、たぶん同じ場所から来ている。

「お前には見えない。でも感じる力は、ある」

あの言葉は、欠如を告げる言葉ではなかった。今ならそう思える。それはむしろ、別の道の入り口を指していた言葉だった。暗い部屋の中で、行燈がひとつ灯ったような、そういう言葉だった。

私は占い師の家系に、力を継がずに生まれた。そのことを今は、ありがたいと思っている。恵まれた欠如、とでも言えばいいか。失くしたからこそ、拾いに行けたものがある。

あなたが「持っていない」と思っているものが、実は何かの入り口だったとしたら——その可能性に、まだ気づいていないだけかもしれない。

鑑定の場で、私は何を見ているのか

アトリエヴァリーの鑑定室は、小さな部屋だ。
テーブルのうえにタロットデッキを置いて、向かいに椅子がひとつ。窓からは外の光が入るが、カーテンをひいて少し落とす。明るすぎると、人は外向きの顔のままでいようとする。少しだけ暗くして、少しだけ静かにすると、人は内側の声に耳を傾け始める。それは祖母が縁側でやっていたこととよく似ている、と気づいたのはかなり後のことだった。

鑑定が始まると、私はまずクライアントの方に話してもらう。カードを引く前に、何を知りたいのかを言葉にしてもらう。この時間が、実は最も重要だと思っている。人は「何を占ってほしいか」を言語化しようとするとき、自分が何を恐れているのかを、意図せず口にする。「仕事のことが聞きたいんですけど、でも本当は」という「でも本当は」の後に、その人の核心がある。

ある日、四十代の女性が来られた。第一声は「転職のタイミングを見てほしい」だった。でも話を聞いていくと、転職したいのではなく、今の職場にいる特定の人間関係から逃れたいのだと、だんだん見えてきた。転職はその手段であって、本当の問いは「逃げることは正しいか」だった。

私はカードを広げながら、転職のタイミングではなく、「逃げることの正しさ」について話した。その女性は途中から泣いた。泣くとは思っていなかった、と帰り際に言った。私もそうだろうと思っていた。人は自分が何を抱えているか、完全にはわかっていない。それを少しだけ照らすのが、私の仕事だ。

タロットのカードは、その照らすための道具だ。七十八枚の象徴が、クライアントの言葉と交差するとき、何かが浮かび上がる。霊的なメッセージではない。でも偶然でもない。その人が今、内側で感じているものが、カードという鏡に映る。そう説明すると、「つまり自分が引き寄せるということ?」と聞かれることがある。引き寄せる、という言葉は少し違う気がするが、「自分の状態がカードの選択に影響している」というのは、あながち外れていない。

私が鑑定の場で見ているのは、カードだけではない。声の速度、視線の動き、言葉の選び方、沈黙のタイミング。それらすべてを同時に受け取りながら、カードの象徴と照らし合わせる。翻訳者の仕事とはそういうものだ。原文を読む力と、訳す言語の力と、その間を橋渡しする感受性が、三つ揃って初めて成り立つ。

「家系」というものへの、今の私なりの解釈

血の話をもう少しだけする。

霊能の家系、という話をするとき、多くの人は「特別な遺伝子」のようなものを想像する。でも私はこの十五年で、少し違う考え方をするようになった。家系から受け継ぐのは「力」そのものではなく、「力に向き合う環境」ではないか、と。

祖母の家には、見えないものを否定しない空気があった。霊的な話を「気持ちの悪いもの」として遠ざけない。「わからないことはある」という前提で生きている大人が、身近にいた。その環境の中で育ったことが、私の感受性を特定の方向に開いた。霊感という形ではなく、「人の見えない部分に関心を持つ」という形で。

これは血ではなく、場の力だ。場の力が、子どもの中に何かの芽を育てる。その芽がどんな花を咲かせるかは、その子ども自身の性質によって決まる。祖母の力を継いだ大伯母も、私のように翻訳者の道を選んだ私も、同じ縁側で同じ空気を吸って育った。でも結果はまったく違う花になった。

占星術の言葉で言えば、出生図は「種」だ。土星がどこにあるか、月がどの星座かによって、種の性質は違う。でも同じ種でも、どんな土壌に蒔かれるかで、育ちは変わる。祖母の家という土壌が、私という種を、翻訳者の方向へ育てた。

最近、若い占い師志望の方から相談を受けた。「霊感がないと占い師にはなれませんか」という内容だった。私はすこし考えてから「霊感がないと、なれない占い師のスタイルはある。でも霊感がなくても、なれる占い師のスタイルもある」と答えた。

そしてそのあとで、少し間を置いてから「私は後者です」と言い添えた。

その方は「それを聞いて安心しました」と言った。安心させるために言ったわけではなかった。でも正直に言うことが、時として誰かの背中を押す。祖母が「お前には感じる力がある」と言ってくれたように。言葉はそういう働きをする。

書くことで、やっと整理できること

このエッセイを書きながら、私はずっと少しだけ落ち着かない気持ちでいた。
個人的すぎる、という感覚がある。祖母の話、コンプレックスの話、憧れていたという告白。普段の鑑定では、私はほとんど自分の話をしない。クライアントの方と向き合う時間は、私の内側を開ける場ではないから。

でも書くことは違う。

Layla Essayを始めたのは、まさにそのためだった。鑑定では言えない話を、言葉に落とす場所が必要だった。ヘアメイクの仕事でも、占星術の解説でも、テレビカメラの前でもない、ただ自分の声で話せる場所。アトリエの書斎、という副題がついているのは、そういう理由だ。

書くことで整理されることがある。頭の中でぐるぐるしていたことが、文章に落ちた瞬間に輪郭を持つ。祖母への気持ちも、「外れた者」という感覚も、鑑定の場で私が何を見ているかも、書いてみるまでは自分でもこれほど明確にはわかっていなかった。

占いも同じだと思っている。カードを引いてテーブルに並べる行為は、内側にあるものを外側に取り出す行為だ。取り出すことで、初めて見える。見えることで、初めて扱える。私が書くことと、クライアントの方がカードと向き合うことは、本質において同じ構造を持っている。

ある冬の夜、鑑定を終えたあと一人でアトリエに残って、窓の外の暗い空を見ていた。星が出ていた。いくつか数えて、それから自分の出生図の上に星を重ねて、ぼんやり考えた。私の月は牡羊座にある。感情を静かに抱えるのが苦手で、どこかへ動かないといられない。書くことも、鑑定も、ヘアメイクも、突き詰めれば「内側にある何かを外に出す」行為だ。月の性質が、仕事のすべてを貫いている。

祖母の月がどこにあったか、知らない。でも縁側で人の話を黙って聞いていた姿と、翌朝「占いを習いなさい」とだけ言った姿を重ねると、何かが見えてくる気がする。祖母も、ずっと何かを外に出そうとしていたのかもしれない。視える力を、人の役に立てることで。

私は視えないけれど、書く。書くことで、見えてくるものがある。その細い糸が、あの縁側まで、まだ繋がっている。

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