スキンケアを、誰かに教えるのが嫌いな理由。

スキンケアを誰かに教えるのが、昔からずっと苦手だった。聞かれるたびに、どこか歯切れが悪くなる自分がいる。別に意地悪で隠しているわけじゃない。ケチでもない。ただ、「これが正解です」と言い切れない何かが、いつもそこにある。15年この仕事を続けてきて、お金も時間も肌に注ぎ込んできて、それでもなお、人に教えるという行為だけが、どうもうまくできない。今日はその理由を、自分のために整理しておく。

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「これ使えば?」と言えない夜

去年の冬、仲のいい友人に「レイラって何使ってるの?教えてよ」と言われた。居酒屋のカウンターで、グラスを傾けながら。彼女は本当に聞いてくれていた。悪意もない、ただの好奇心。でも私は一瞬止まって、「うーん……」と曖昧な顔をしてしまった。
彼女の肌は私の肌と全然違う。乾燥とは無縁の、皮脂がしっかりある混合肌。私はどちらかといえば乾燥寄りで、年齢とともに水分保持が下手になってきたタイプ。私が使っている高濃度のセラムを彼女に勧めたとして、それが合うかどうか、正直まったくわからない。むしろ合わない可能性の方が高い。でも「合わないかもね」と言うのも変な話で、「あなたの肌には向かないかも」なんてちょっと失礼にも聞こえる。
それで結局、「う〜ん、いろいろ使ってるから一概に言えないな」という逃げ方をした。彼女はそれで納得してくれたけど、私の中には小さな引っかかりが残った。なんで私、ちゃんと答えられないんだろう。
その夜帰り道、考えながら歩いた。別に秘密にしたいわけじゃない。使っているものは普通に言える。でも「これを使えばいい」という文脈で話すのが、どうしても嫌なんだ。それはなぜか。答えは意外と深いところにあった。

スキンケアは「再現性のある料理レシピ」じゃない

料理のレシピは、材料と手順が同じなら、誰がやってもだいたい同じ結果になる。玉ねぎを炒める時間が多少違っても、塩の量が少し変わっても、カレーはカレーとして完成する。でもスキンケアはそうじゃない。
同じ美容液を、同じ量、同じ順番で使っても、AさんとBさんで結果が違う。湿度が違う、体温が違う、ホルモンバランスが違う、食生活が違う、睡眠の質が違う、ストレスの種類まで違う。肌は内側と外側のすべての影響を受けて動いている生き物みたいなもので、それに対してひとつの「正解ルーティン」を渡すのは、本質的に無理がある。
私がヘアメイクアーティストとして現場に立ち始めた頃、先輩に言われた言葉がある。「肌は毎朝違う顔をしている。昨日の正解が今日は不正解になることがある」。当時は「ふーん」くらいにしか思っていなかったけど、今はその言葉の重さがわかる。
肌というのはそれほどデリケートで、気まぐれで、状況に左右されるものだ。だから私が「これを使えばいい」と断言した瞬間、その言葉は嘘になるリスクを孕む。嘘をつきたくないから、教えられない。それが一番根っこにある理由のひとつだと思う。
しかも、スキンケアは成分だけじゃなく、使い方の「手」にも左右される。私は長年の癖で、化粧水を手のひらで包み込むように何秒もかけて押さえる。温度を使って浸透させるイメージで。でも同じやり方を教えても、手の大きさが違う、体温が違う、押さえる圧が違う。全部が変数になる。レシピとして渡せるほど、スキンケアは単純じゃない。

「信頼」が重すぎる問題

もうひとつ、教えるのが嫌いな理由がある。それは、教えた瞬間に「信頼」という重荷が生まれることだ。
誰かに「これいいよ」と言って、相手がそれを試す。もし合わなかったら?肌荒れが起きたら?「レイラに勧められたから使ったのに」という目線が生まれる可能性がある。口には出さなくても、心の中でそう思うことはある。それは普通のことだと思う。だって信頼して試したんだもの。
私はこの「もし合わなかったら」という可能性を、過剰なくらい気にしてしまう。鑑定の世界では、タロットにしても占星術にしても、私が出した読みに対して「外れた」という評価が来ることがある。それは覚悟の上でやっている仕事だから、ある程度は受け止められる。でも美容の話は違う。あれは私のプロとしての領域というよりも、もっと個人的な「私の体験」に近い。自分の体で試してきたことを、ぽんと渡すのは、なんか違う気がする。
ヘアメイクの仕事で、モデルさんやタレントさんに触れる機会は多い。その中で肌の状態を見ながら「今日はこのベースはやめよう」とか「このテクスチャーの方が馴染む」とか判断する場面がある。それは現場での判断で、相手の肌を直接見て触れた上での話。でも「日常のスキンケアを教えて」というのは、その人の肌の状態も生活環境も見えない状態で渡すことになる。どれだけ丁寧に説明しても、現場の判断と同じ精度にはならない。
信頼に応えられないかもしれないものを、「これ使えば?」と渡すのは、私には誠実じゃない気がする。だから教えるのが嫌い、というより、教えることに慎重にならざるを得ない、というのが正確なのかもしれない。

SNSで「私のルーティン」を晒す文化への違和感

正直に言う。SNSで「私のスキンケアルーティン」を何十万人に向けて公開している人たちに、ずっと違和感があった。
「朝はこれ、夜はこれ、この順番でこう使います」。丁寧に、わかりやすく。再生数も稼げる。共感も集まる。「参考になりました!」「真似します!」というコメントが並ぶ。それ自体は悪くない。情報として価値があることもある。でも私にはできない、というかしたくない理由がある。
それは、「私のルーティンを見た人が、そのまま真似をする」という状況がどうしても好きじゃないから。特にその人の肌タイプも年齢も生活習慣も何も知らずに、「このコスメを買ってみた」「同じ手順でやってみた」という行動を無数に引き起こすことへの、なんというか、責任の取り方がわからない感覚がある。
これを言うと「気にしすぎ」と言われることもある。みんな自己責任でやってるんだから、と。それはそうだと思う。でも、私はそもそも「みんな」に向けて話しかけるのが得意じゃない。私が話したいのは、今目の前にいる、具体的な一人の人に向けてだけだ。
アトリエヴァリーでの鑑定でも、私は一人ひとりに対して読みを変える。同じ星座、同じ生年月日でも、その人の人生のコンテキストによって言葉を選ぶ。スキンケアもそれと一緒で、一人ひとり違う。「万人向けのルーティン公開」という行為は、それと真逆の方向性を持っている。
私がSNSでスキンケア情報をほとんど発信しないのは、意地悪じゃなくて、ちょっとした誠実さの表れだ。少なくとも私はそう思っている。

「合う」と「好き」は別物という話

もう少し込み入った話をする。スキンケアにおいて、「肌に合う」と「自分が好き」はイコールじゃない。
私はずっと、あるフランスのブランドのクレンジングオイルが大好きだった。テクスチャーが滑らかで、香りが好きで、洗い上がりのしっとり感が気持ちよくて。使うたびに「あ〜これ好きだな」と思っていた。でも肌のコンディションを細かく記録していたある時期、そのクレンジングを使った翌日に微妙にくすみが出ていることに気づいた。週に一度やめてみたら、くすみが減った。毎日使い続けていたら、なんとなく「合っている」と思い込んでいたと思う。「好き」という感情が、客観的な肌の状態を見えにくくしていた。
これは私の話だけじゃなくて、多くの人に起きていることだと思う。使い心地がいいもの、香りが好きなもの、パッケージが素敵なもの、好きな人が使っているもの。そういう「好き」の感情がスキンケア選びを左右する。それは別に悪いことじゃない。美しいものを使うことの豊かさは本物だ。でも「合っているかどうか」とは切り分けた方がいい。
誰かに「これが好き」と伝えることはできる。でも「これが合う」と伝えるのは、相手の肌を知らない限り言えない。この違いを説明するのが面倒で、でも誠実であろうとすると避けられなくて、だから教えるのが億劫になる。
「好きなものを教えて」なら答えられる。「合うものを教えて」には答えられない。でもほとんどの人が求めているのは後者だから、どこかで噛み合わなくなる。

自分の肌すら、まだわかっていない

これが一番恥ずかしい告白かもしれないけど、私はまだ自分の肌のことを完全には理解していない。
15年この仕事をして、皮膚科の先生や美容研究家と話す機会もあって、成分の勉強も続けてきた。でも肌というのは、知れば知るほど謎が深くなる。年齢で変わる。季節で変わる。ホルモン周期で変わる。引越しで変わる。たまに「あれ、これこんな感じだっけ?」と思うことがある。何十種類もコスメを試してきた自分でも、「これが私の肌に完璧に合っている」と言い切れるものはほとんどない。
去年の秋、引越しをした。同じ東京の中での引越しだったけど、水質が微妙に変わったのか、空気が変わったのか、それまで問題なかったバリアクリームが急に重く感じるようになった。環境が変わるだけで肌の反応が変わる。それくらい繊細なもの。
自分のことすらまだわかっていないのに、他人の肌について「これが正解」と言えるはずがない。その感覚が、教えることへのためらいと直結している。
「それを言ったら何も教えられなくなる」と言う人もいる。確かにそうかもしれない。でも私は「少しでも不確かなことは断言しない」というスタンスで生きている。タロットの読みでもそうで、見えていることは伝えるけど、見えていないことを見えているふりはしない。スキンケアも同じ軸で考えている。自分の不確かさを棚に上げて、「これ使えばいい」と渡す気にはなれない。

教えることと、伝えることは違う

ここまで書いてきて、少し整理できてきた気がする。私が嫌いなのは「教えること」であって、「伝えること」じゃない。
この違いは意外と大きい。「教える」には、正解を渡すというニュアンスがある。「これが答えだ、この通りにやれ」という構造。でも「伝える」は、私の体験を共有するだけで、正解を押し付けない。あくまでも一つの事例として、私はこうだった、こう感じた、こういう理由でこれを選んだ、と話す。それだけ。
私がこのブログで書くスキンケアの話は、ほとんどが「伝える」スタンスだと思っている。私がある時期に何を感じて、何を試して、何を変えたか。それを読んだ人が「ふーん、そういう考え方もあるのか」と思ってくれればいい。真似してほしいわけじゃない。参考になればいいし、ならなくてもいい。
でも現実には、「伝える」つもりで書いたものが「教えてもらった」として受け取られることがある。「レイラさんが勧めてたから買いました!」というDMが届く。それを見るたびに、少し申し訳ない気持ちになる。そういう意図じゃなかった、と。
言葉の受け取られ方は自分でコントロールできないから、これは仕方ない部分でもある。でもだからこそ、私は「教える」という言い方を自分には許さないようにしている。伝える。共有する。体験を話す。それ以上でも以下でもない。
「スキンケアを教えてほしい」と言われる時、相手が求めているのは「正解」だ。その気持ちはわかる。肌のことは不安だし、何が正しいのかわからないから、信頼できる人に「これ」と渡してもらいたい。でも私にはそれができない。正解を持っていないから。

それでも、たまに話したくなる時がある

散々「教えるのが嫌い」と書いてきたけど、正直に言うと、たまに無性に話したくなることがある。
それはたいてい、「肌がよくなった」という実感があった直後だ。何かを変えてみて、数週間後に鏡を見た時に「あ、変わってる」と気づく瞬間がある。そういう時は、誰かに言いたくなる。別に勧めたいわけじゃなくて、ただ嬉しいから、興奮をシェアしたくなる。
去年の春、ずっと悩んでいた毛穴の感じが急に落ち着いた時期があった。特に何かを劇的に変えたわけじゃないけど、水の量を増やして、ある酵素洗顔を週2回に減らして、それだけ。地味な変化だったけど、その時の「あ、肌が喜んでる」という感覚がすごくよかった。まるでずっと緊張していたものが、やっと息を吐いたみたいな。
この感覚を誰かに話したいと思った。でも話すなら、その前後の文脈も全部説明しないと意味がない。なぜ毛穴が気になっていたのか、何を試してきたのか、そこに至るまでの試行錯誤の歴史。それを全部省いて「酵素洗顔を減らしたら毛穴が改善しました」と言うのは、ほとんど意味がない。むしろ誤解を生む。「じゃあ自分も減らせばいい」と思ってしまう人が出る。
だから言わなかった。心の中だけで「やったー」と思って、次の話題に移った。
こういうことを繰り返している。話したいと思う、でも話せる形にならない、だから話さない。その繰り返し。これが「教えるのが嫌い」の実態かもしれない。嫌い、というより、伝えきれないもどかしさが積み重なって、最初から口を閉じる癖がついてしまった。

「正解」を求めることの疲れ

少し視点を変えると、「スキンケアの正解を教えてほしい」という要求そのものについて考えたくなる。
現代人は「正解」に疲弊していると思う。何を食べればいいか、何を着ればいいか、どう生きればいいか。あらゆることに「正解探し」が起きていて、美容もその例外じゃない。SNSには「これが最強」「これが正解」「皮膚科医が教える本当のケア」という言葉があふれている。見ているだけで、今自分がしていることが間違いなんじゃないかという不安が生まれてくる。
私はそのループに加担したくない。「レイラが言うなら正解だ」という権威性を持って、誰かの「正解探し」に燃料を追加するのが嫌なんだ。
鑑定の仕事でも同じ葛藤がある。「どうすればいいか教えてください」と言われることがある。でも私の仕事は「どうすればいいか」を渡すことじゃなくて、「今どういう状況にあるか」「どういう力が働いているか」を読んで伝えることだ。判断は、最終的にその人がする。そのためのツールとして星やカードがある。
美容も同じで、私の体験は私の体験でしかない。誰かの肌の判断材料にはなれるかもしれないけど、正解として機能することはない。その認識を持った上で話すなら、「教える」という言葉は使えない。
「正解を求めている人に、正解じゃないものを渡すのは親切じゃない」という考えが、私にはある。だから最初から、教えるというスタンスを取らない。それが誠実さだと思っている。

それでも肌と向き合い続ける理由

最後に、なぜそれでも私がスキンケアにこんなに時間とお金と思考を注いでいるのかを話しておきたい。
ヘアメイクの仕事を始めた頃、先輩アーティストの肌を見て衝撃を受けたことがある。50代なのに、素肌の質感が異様に美しかった。ファンデーションをのせた時の馴染み方が、20代のモデルと全然違う。表面が滑らかで、光の反射の仕方が均一で、でも不自然じゃない。「どうしてそんなにきれいなんですか」と聞いたら、「毎晩、急がないことだけ決めてる」と言われた。
急がないこと。その一言がずっと頭に残っている。スキンケアにかける時間は、自分の肌と会話する時間だ。今日はどんな状態か、何が足りていて何が過剰か、何に反応しているか。それを感じるためには、急いでいては無理だ。
私が毎晩のスキンケアに時間をかけるのは、効果を最大化したいからだけじゃない。その時間が、自分に向き合う時間になっているから。鑑定の準備として感覚を研ぎ澄ます時間でもある。書く仕事をする前に、思考を整理する儀式でもある。
だから私にとってスキンケアは、美容の話であると同時に、生き方の話だ。誰かに「教える」ことができないのは、それを単純なハウツーに還元できないからでもある。私がやっていることはケア以上の何かで、それをレシピとして切り出すことへの抵抗感がある。
地上波の取材でスキンケアについて聞かれた時も、コスメのことより先に「どんな気持ちでやっているか」を話してしまう癖がある。カメラマンに「えっと、具体的なアイテムを……」と苦笑いされることもある。でも私には、気持ちの話抜きにスキンケアの話ができない。
肌は嘘をつかない。忙しすぎれば荒れる。不安が続けば乾く。喜びがあれば艶が出る。長年触れてきてそれを感じるから、肌の話は内側の話でもある。内側の話を、アイテム名と使い方だけに変換して渡すことへの違和感。それが、私がスキンケアを教えるのが嫌いな、一番深いところにある理由だと思う。
あなたの肌は、あなたの内側の話をしている。誰かのルーティンじゃなくて、そこに耳を傾けることが、本当の意味でのスキンケアかもしれない。そのことに、あなたはもうとっくに気づいているんじゃないか、とも思う。

「肌が変わった」と言われた日のこと

数年前、企業の美容顧問として定期的にミーティングに参加していた時期がある。その会社の広報担当の女性が、ある日突然「レイラさん、最近肌変わりましたよね」と言ってきた。会議室の蛍光灯の下で、資料を広げながら。褒め言葉として言ってくれたのはわかったけど、私は少し戸惑った。
変わった自覚は、実はあった。その半年ほど前から、ずっと使っていたラインを全部やめて、成分をかなり絞った構成に変えていた。使うものを減らして、重ねる層を薄くして、代わりに時間をかけるようにした。結果として、肌がどこか落ち着いた感じになっていた。ツヤの出方が、以前よりも均一になっていた。
「何を変えたんですか?」と当然聞かれる。その時に私が答えたのは、「減らしました」の一言だった。彼女は「え?何をですか?」と続けた。でも「何を減らしたか」よりも「なぜ減らしたか」を話さないと、伝わらない気がして、うまく続けられなかった。
その「なぜ」の部分というのは、当時の私が過剰なケアによって肌のバリア機能を下げていたという仮説に至るまでの、数ヶ月の観察と記録と実験の話で、一言で話せる内容じゃない。「お風呂上がりに何も塗らない日を意図的に作った」とか、「朝は水だけにしてみた」とか、そういう私なりの実験があって、初めて「減らす」という結論にたどり着いた。その文脈ごと渡さないと「減らせばいい」という誤解になる。
会議室でそれを全部話すのは無理で、「なんか、いろいろ見直したんです」と笑ってごまかした。彼女は「今度ゆっくり聞かせてください」と言って、ミーティングが始まった。その「ゆっくり」はついに来なかった。そういうものだと思う。スキンケアの話には、ゆっくりした時間と、お互いに集中できる環境と、相手の肌を知ろうとする前提がないと成立しない。会議の隙間には収まらない。

成分オタクになって気づいた限界

ある時期、成分の勉強にかなりのめり込んだことがある。美容皮膚科の先生が書いた専門書を読み込んで、セラミドの種類の違いを調べて、レチノールの濃度と刺激の関係を表にまとめて、ナイアシンアミドとビタミンCの相性について真剣に考えていた。自分でいうのもなんだけど、一般的な美容ライターよりは深いところまで理解していたと思う。
でも、その知識が増えるほどに、「人に勧める」ことが難しくなっていった。成分を知れば知るほど、「合う・合わない」の条件が複雑になっていく。レチノールは効果が高いけど、敏感肌には刺激になりやすく、妊娠中は使えない。ナイアシンアミドは汎用性が高いけど、高濃度では一部の人に紅潮が出る。ビタミンCは素晴らしい成分だけど、酸化しやすく、製品の保管状態によって効果が変わる。知るほどに例外と条件が増えていく。
初心者のうちは「これいいよ」と気軽に言えた。知識がないから、自分が感じた「よかった」をそのまま言葉にできた。でも学べば学ぶほど、軽率に言えなくなっていった。これを成長と呼ぶのか、慎重になりすぎと呼ぶのか、自分でもよくわからない。
専門家ほど断言しない、という現象は美容に限らず起きると思う。医師が「絶対大丈夫」と言わないのと似ている。例外を知っているから、断言のリスクを知っているから、言葉が慎重になる。私のスキンケアを「教えられない」感覚は、もしかするとこの延長線上にあるのかもしれない。知識が増えた結果として生まれた、ある種の誠実な躊躇い。
それでもやはり、知らない方が気楽に話せるという局面はある。最近は意識的に「成分の話をしすぎない」ようにしている。成分の話は深みにはまると終わらないし、聞いている方が疲れる。それよりも「どう感じたか」「肌がどう変わったか」という体感の話の方が、実は伝わることが多い。知識は自分のために使う。人に話す時は、感覚の言葉に翻訳する。そのバランスをずっと探している。

占いとスキンケアは、同じ構造を持っている

こう書いてきて、気づいてきたことがある。占いとスキンケアは、私の中でほとんど同じ構造を持っている。
タロットや占星術で人を読む時、私が大切にしているのは「その人にとっての文脈」だ。同じカードが出ても、30代で転職を考えている人と、60代で老後を考えている人では、全く違う意味を持つ。星の配置も同じで、土星がどこにあるかより、その人の人生のどのタイミングで土星期が来ているかの方が重要になる。普遍的な意味と、個別の文脈を組み合わせて初めて、その人への言葉になる。
スキンケアも全く同じだ。「セラミドは肌のバリア機能をサポートする」というのは普遍的な情報だ。でも「あなたに今必要なのはセラミドです」と言うためには、あなたの肌の状態、年齢、生活環境、今のスキンケアの構成、全部を知った上じゃないと言えない。普遍的な知識と、個別の文脈。この二つが噛み合って初めて、「その人への答え」になる。
私が「教えるのが嫌い」なのは、おそらく個別の文脈を無視した普遍的な情報の渡し方が嫌いなのだと思う。「セラミド配合のクリームがいい」という情報単体で渡されても、それはまだ半分でしかない。残り半分は、受け取る人の側にある。その半分を私は埋めることができない。
鑑定では、相手の話を聞いて、質問して、コンテキストを理解してから読みを伝える。スキンケアでも本来そのプロセスが必要だ。でも「スキンケアを教えて」という会話の文脈では、そのプロセスを経る時間も場所もたいていない。だから答えが出ない。出せない。
これを友人にうまく説明できたことは、まだ一度もない。「難しく考えすぎじゃない?」と言われると、そうかもな、と思う瞬間もある。でもそう言った友人の肌と私の肌は違うし、彼女が使って合ったものが私に合うとは限らない。それを知っているから、やっぱり私は慎重になる。難しく考えているんじゃなくて、本当に難しいんだと思っている。

教えない代わりに、私がしていること

「教えるのが嫌い」と言い続けてきたけど、じゃあ何もしないのか、というとそうじゃない。教える代わりに、私なりにやっていることがある。
一つは、このブログに書き続けること。私が何を試して、何を感じて、何を考えたか。体験を記録として残すことで、読んだ人が「自分の肌と照らし合わせる材料」として使えるようにする。正解を渡すんじゃなくて、素材を置いておく感じ。レシピじゃなくて、食材棚を公開するイメージ。何を選んで、どう組み合わせるかは、読んだ人が自分で決める。
もう一つは、「観察することを勧める」こと。スキンケアのアイテムを勧める代わりに、自分の肌を観察する習慣を話す。朝起きた時に鏡で5秒だけ肌を見る。触った時の感触を覚えておく。食事を変えた時に肌が変わるか試してみる。これくらいのことなら、誰にでも言える。アイテムと違って、「合わない」という結果が出ない。観察すること自体は、誰の肌にも合う。
アトリエヴァリーで鑑定をしていると、「美容も占いも、自分を知るためのツール」という感覚が強くなってくる。星の動きを知ることで自分の今の位置を知るように、肌の状態を観察することで自分の内側の状態を知る。どちらも、外側のツールを通して内側を見る行為だ。だとすれば、スキンケアで一番大切なのはアイテムじゃなくて、観察する習慣の方かもしれない。
私が「教えられない」と感じる問いへの、今のところの私なりの答えはそこにある。正解のアイテムを渡すことはできない。でも「自分の肌を見る癖をつける」ことは、誰にでも言える。そしてそれが、どんな高価なスキンケアよりも先に必要なことだと、15年でたどり着いた気がしている。
鏡の前で、急がずに、自分の肌を見る。ただそれだけのことが、案外できていない人の方が多い。教えたいのはそこだけで、あとは自分で気づくしかない、と思っている。

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