深夜、アトリエの灯りをひとつだけ残す。
キャンドルではなく、小さなデスクライト。
その黄色い光の中に、白い紙を置く。
墨を磨る。静かに、ゆっくりと。
そして筆を持つとき、わたしはいつも、左手で握る。
右利きなのに、と人に言うと、たいてい不思議そうな顔をされる。
「書きにくくないですか」と聞かれることもある。
書きにくい。もちろん書きにくい。
それがいい、とわたしは思っている。
なぜそう思うのか。今日はその話をしようと思う。
護符とは何か、という原点の話
護符を「お守りの紙」として理解している人は多い。
神社でいただくもの、お坊さんが書いてくれるもの、あるいはどこかで買えるもの。
そういうイメージで語られることがほとんどだ。
でもわたしにとって護符は、もう少し違う文脈に置かれている。
西洋魔術とも、東洋の呪術とも交差しながら、わたし自身が15年かけてつくってきた、ひとつの「言語」だ。
言語、という言い方をしたのは意図がある。
護符というのは記号を使って何かを「書く」行為であり、書くということはつまり、表現することだ。
言葉で言えないことを、形に変換する作業。
祈りを、意志を、あるいは静かな怒りや悲しみを、紙の上に定着させていく。
護符を作るときわたしが感じるのは、占いや施術のときとは少し違う、もっと根っこに近い何かだ。
西洋占星術の鑑定では、ホロスコープというマップを読む。
タロットでは、カードが場に並んだ瞬間の空気を読む。
でも護符を書くとき、わたしが読んでいるのは外側ではなく、内側だ。
依頼者の言葉、その奥にある呼吸のようなもの。
あるいは、自分自身が今この瞬間どこに立っているか。
護符は、その「今」を紙に閉じ込める装置だとわたしは考えている。
だから護符を書く行為は、単なる「作業」じゃない。
セレモニーに近い。準備があって、中心があって、終わりがある。
そのセレモニーの中で、左手を使うことは、わたしにとって最初の関門だ。
左と右、身体の非対称性について
人間の身体は、外から見ると左右対称に見えて、内側はまったく非対称だ。
心臓は左に傾いている。肝臓は右にある。腸は右から始まって左で終わる。
脳もそうで、右脳と左脳は役割が違う。
利き手というのはその非対称性が行動に現れた結果で、わたしは生まれつき右手が「慣れた手」だ。
慣れた手、というのがポイントだとわたしは思っている。
右手で何かを書くとき、意識はほぼ「内容」に向かう。
手の動きは自動化されていて、脳はそこに余計なリソースを使わない。
書きながら別のことを考えられるし、気づけばメモが完成している。
そういう「なめらかさ」が、右手にはある。
でも護符を書くとき、わたしはその「なめらかさ」を邪魔したい。
意識が内容だけに行ってしまう状態では、護符は書けないと感じているからだ。
護符を書くというのは、内容と手を同時に意識する行為だとわたしは思っている。
書かれる記号と、書いている身体と、書こうとしている意志。
その三つが同時に存在しないと、ただの「落書き」になる。
左手で筆を持つと、とたんに手が意識に入ってくる。
筆先がどこにあるか、力の加減はどのくらいか、線が太くなったか細くなったか。
全部が「わからない」状態で始まるから、意識が手を追いかけ始める。
その状態がわたしには必要だ。
手を追いかけながら、記号を追いかけながら、意志も同時に保つ。
その緊張感の中でしか、護符は「生きた形」にならないとわたしは信じている。
もちろん、これは魔術書に書いてあることではない。
わたしが15年の実践の中で、自分の身体を使って発見したことだ。
正しいかどうかは、わからない。
でも、わたしにとっては正しい。
最初に左手で書いた夜のこと
最初からそうしていたわけじゃない。
護符を書き始めた最初の数年は、右手で書いていた。
なんの違和感もなかった。むしろ、上手く書けることに満足していた。
記号が綺麗に並んで、バランスよく仕上がると、達成感があった。
転機になったのは、占い師としてのキャリアが5年ほど経った頃の冬の夜だ。
深夜に依頼者のための護符を書いていた。
複雑な事情を抱えた方で、鑑定も長かった。
その方のために書いた護符が、自分でも珍しいくらい「綺麗に」仕上がった。
バランスよく、丁寧に。完成した紙を見て、わたしは少し誇らしい気持ちになった。
でも翌朝、机の上に残ったその護符を見たとき、何かが違うと感じた。
言葉にするのが難しいのだが、「綺麗すぎる」と思ったのだ。
護符が、まるで「作品」みたいに見えた。
依頼者の事情の重さとか、その方が夜中に泣きながら話してくれた言葉とか、そういうものが、どこにも残っていなかった。
きちんと書こうとする意識が、護符の中にあるべき「何か」を押し出してしまっていたのかもしれない。
その夜、試しに左手で書いてみた。
もちろん最初はひどいものだった。
線はガタガタで、バランスも崩れていた。
でも書いているあいだ中、わたしは手のことを考え続けていた。
そして気づいたら、依頼者のことも、その方の言葉も、同時に考えていた。
手を追いかけながら、その人のことが頭から離れなかった。
完成した護符は、見た目は下手だった。
でも翌朝見ても、「違う」という気持ちにならなかった。
それから、護符を書くときは左手を使うようになった。
ガタガタの線が、少しずつ整ってきても、左手はやめなかった。
上手くなることより、この感覚を保つことの方が大事だと思ったから。
「使いにくい道具」が持つ意味
使いにくいことに意味がある、というのは逆説的に聞こえるかもしれない。
効率を大切にする現代では特に、そういう発想は奇妙に映るだろう。
でも儀式や祭祀の世界では、不便さが意図的に組み込まれていることは少なくない。
茶道のことを考えてみてほしい。
茶室の入り口「躙り口(にじりぐち)」は、大人が屈まないと入れないほど小さい。
あれは決して設計ミスではない。
身を低くして入ることで、身分の高い者も低い者も等しく、「ここから先は別の場所だ」と身体で認識させる装置だ。
不便さが、意識を切り替えるスイッチになっている。
左手で護符を書くことも、わたしにとってはそういうスイッチだ。
日常の「なめらかさ」を意図的に壊す行為。
ここから先は、いつもと違うモードで動いている、という身体への宣言。
右手で書き始めた瞬間に、脳は「書く作業」を開始するが、
左手で書き始めた瞬間に、脳は「何かが始まる」と感じる。
その違いがある、とわたしは思っている。
ヘアメイクアーティストとしての経験から言うと、道具の選び方も似たところがある。
慣れた道具は確かに精度が高い。
でも時々、あえて使い慣れない筆や道具を使うことで、手が「考え直す」瞬間がある。
自動操縦が切れて、今この皮膚の質感、今この光の当たり方、と意識が細部に向かう。
熟練すればするほど、この「意図的な不便」が必要になる場面がある。
護符を書く行為も、同じ構造を持っていると思う。
もうひとつ言うと、「書きにくい」という感覚そのものが、護符に何かを加えていると思っている。
すらすら書けた線には、緊張がない。
ガタガタと進みながら書いた線には、意志の痕跡がある。
その「痕跡」が護符に込もるものだと、わたしは感じている。
これは感覚論だから証明できないが、15年間この方法を続けてきた理由のひとつだ。
身体を「媒介」として使うということ
占い師という仕事は、情報を扱う仕事でもあるが、身体を使う仕事でもある。
タロットカードをシャッフルする手、ホロスコープチャートの上を動く指、
鑑定のあいだ微妙に変わっていく声のトーン。
どれも身体が介在している。
そして、介在する身体の状態が、鑑定の質に影響すると感じる場面がある。
疲れている日の鑑定は、自分でわかる。
言葉は同じでも、どこか表面を滑っている感覚がある。
逆に、身体が静かで、呼吸が整っている日は、言葉が内側から出てくる感じがする。
占いや施術を受けたことがある方には、伝わるかもしれない。
同じ鑑定士に同じ質問をしても、その日によって「刺さり方」が違う、という体験。
あれは、鑑定士の身体の状態が言葉に乗っているからだと、わたしは思っている。
護符を書くとき、左手を使う理由のもうひとつは、この「身体の状態を意図的に整える」という目的にある。
左手で書くためには、まず身体を落ち着かせなければならない。
急いでいたり、ざわついていたりする状態では、左手の操作はさらに難しくなる。
だから自然と、呼吸を整えることになる。
肩の力を抜くことになる。
今ここに意識を戻すことになる。
ある冬の鑑定のあと、その日のうちに護符を書かなければならない状況があった。
長い鑑定が続いて、身体も頭も疲弊していた。
それでも紙の前に座って、左手で筆を持った。
最初の一画を引いたとき、手が震えていることに気づいた。
疲労ではなく、緊張のような、あるいは集中のような震えだった。
その震えを感じながら、一画ずつ進んだ。
30分後、護符が完成したとき、不思議なことに疲労感が少し消えていた。
身体が、別の何かを経由してきた感じがした。
身体を媒介として使う、というのはそういうことだ。
道具として使うのではなく、一緒に参加させる。
左手を使うことは、身体に「これは特別な作業だ」と教える方法であり、
同時に身体から何かを引き出す方法でもある。
記号と意図の間に立つもの
護符には記号を使う。
魔術的な記号、古い文字体系から派生したもの、あるいはわたしが独自に組み合わせたもの。
その記号には「意味」がある。
でも記号の意味だけが護符を機能させるわけではない、とわたしは考えている。
記号と、それを書く意図の間に、もうひとつのレイヤーがある。
たとえば、同じ文字を印刷した紙と、手書きした紙は違う。
多くの人がそう感じるはずだ。
手紙と封書の違い、サインと捺印の違い。
「手で書いた」という行為が、記号に何かを付け加えていると、人間は感覚的に知っている。
その「何か」を、わたしは「意図の痕跡」と呼んでいる。
書いた人がその時間に何を考えていたか、何を感じていたか、
そういうものが線の質やインクの濃淡に、かすかに残る。
記号の「意味」と、「意図の痕跡」が重なったとき、護符は護符になる。
記号だけでは、それは図形だ。
左手を使うことで、この「意図の痕跡」を意識的に強めようとしている。
書きにくいということは、一画ごとに意識が介在するということだ。
無意識で書けないから、常に「今、何を書いているか」「なぜ書いているか」が頭の中にある。
その状態で書かれた線には、意図がより密度高く込もっている、とわたしは感じている。
これは科学的な話ではない。
でも、占いやヘアメイクや護符制作の現場で15年間感じてきたことを、
わたしは信用している。
自分の感覚は、わたしにとっての実験データだ。
アトリエヴァリーで企業顧問や個人鑑定を続けてきた中で、
護符を依頼された方からの言葉を振り返ると、
「なんか違う気がする」「持っているとお守りみたいな気持ちになれる」という感想が多かった。
その「なんか違う」の中身を言語化しようとすると、この話に戻ってくる。
記号の意味と、意図の痕跡が重なっているかどうか。
「ゆっくりであること」の価値
左手で書くと、時間がかかる。
右手で5分で書ける護符が、左手だと20分かかることもある。
その「20分」が無駄かどうか、と考えると、わたしは無駄だとは思わない。
むしろその20分が護符の一部だと思っている。
儀式の時間は、外側の時間とは別の流れを持っている。
護符を書いている20分は、日常の20分と同じ密度ではない。
集中と意識と呼吸と手の動きが絡み合いながら進む時間は、
もっと濃くて、もっと遅い。
その時間の濃さが、護符に蓄積されていく、という感覚がある。
地上波のテレビ番組に出演したとき、「護符って時間かかるんですか」と聞かれたことがある。
そのときは「かかります」とだけ答えた。
理由を全部説明する時間がなかったし、テレビという場所でこの話を全部するのも違う気がした。
でも今ならもう少し言える。
「かかることが目的のひとつです」と。
ゆっくりであること、の価値は現代では軽視されやすい。
スピードが効率と同義になった世界では、時間をかけることは「損」に見える。
でも護符に限らず、大切なことは時間をかけないと届かない場所にある気がする。
言葉も、祈りも、関係も。
すぐに出来上がるものは、すぐに消える。
そういう乱暴な言い方ができてしまうくらい、時間には意味がある。
左手で護符を書いている20分、わたしはずっとその護符を届ける相手のことを考えている。
あるいは、その護符が自分のためのものであれば、自分が今どこにいるかを考えている。
手が遅いから、思考がそこに留まれる。
右手で5分で書いていたら、こんなに長くひとつのことを考えることはできなかっただろう。
「ゆっくり」は、護符の製法ではなく、護符の内容を形成する時間だと思っている。
「慣れた手」を手放すことが、魔術の入口
魔術と聞くと、難しい知識や、特別な素材や、長い修練が必要だと思う人が多い。
実際、そういう側面もある。
でもわたしが15年やってきて思うのは、魔術の核心は「慣れたものを手放す練習」だということだ。
慣れた手、慣れた言葉、慣れた思考の枠組み。
それらを一時的に脇に置いて、別のやり方で物事に触れてみる。
そのとき、普段は見えていない何かが見えてくる。
魔術の実践が持つ本当の意味は、そこにあるとわたしは思っている。
左手で護符を書くことは、「慣れた右手」を手放すことだ。
たったそれだけのことで、世界の見え方が少し変わる。
自分の手がこんなに不自由だったということを知る。
ゆっくりしか動けない手でも、ちゃんと線を引けることを知る。
不器用な線の中に、自分の意図がより鮮明に見える。
これは護符の話だけではない、とわたしは思っている。
鑑定のやり方を少し変えると、見えていなかったものが見えてくる。
いつもと違う道を歩いてみると、街の顔が変わる。
慣れた手を手放す練習は、日常の至るところに応用できる。
でも「練習だから」と割り切れる場所で始めるより、
「これが本番だ」という緊張感の中で始める方が、本当の変化につながりやすい。
護符を書く場は、わたしにとってそういう場所だ。
あるとき、タロットを使った鑑定で、引いたカードの意味をいつもとは逆の角度から読んでみたことがある。
「このカードが表すのは、依頼者が意識していることではなく、意識から外しているものだ」と仮定して読んだ。
そうすると、鑑定の流れがまったく違う場所に着地した。
依頼者も驚いて、でも「そっちの方が本当な気がする」と言った。
慣れたやり方を外したことで、見えてきた景色があった。
左手で書くことも、同じ構造を持っている。
アトリエの深夜、護符が完成するとき
護符が完成する瞬間のことを書いておきたい。
最後の一画を引き終えたとき、わたしはすぐに筆を置かない。
少しのあいだ、左手に筆を持ったまま、紙を見る。
呼吸をひとつ整える。
それから静かに筆を置く。
その数秒が、護符の「締め」だとわたしは思っている。
最後の一画で作業が終わるのではなく、その呼吸と視線と、置く手の動作まで含めて護符は完成する。
これも誰かに教わったわけではなく、長い時間をかけて自然にそうなった習慣だ。
深夜のアトリエは静かだ。
外の音が消えて、デスクライトの黄色い光の中に、白い紙と黒い記号がある。
墨のにおいが少し漂っている。
左手の指先に、筆を持ち続けた疲れがある。
その疲れが心地よい。
何か、大切なことを終えた感覚がある。
完成した護符を乾かすあいだ、わたしはたいていお茶を飲む。
特別なお茶ではなく、普通のほうじ茶か、緑茶か。
温かいカップを両手で持って、護符の隣に座っている。
儀式が終わって、日常に戻る前の、橋渡しのような時間。
護符はまだそこにあって、わたしはここにいる。
その距離感が好きだ。
護符を届けるのは翌日以降にする。
一晩置くのにも理由がある。
書いた直後は、まだ書いた人間の「熱」が残っている。
それが少し落ち着いてから、独立した「形」になる。
そうなってから渡す方が、受け取る人に届きやすいとわたしは感じている。
左手が知っていること
利き手ではない左手は、右手が知らないことを知っている。
うまくできないこと、時間がかかること、力加減がわからないこと。
でもそのぶん、全部を感じながら動いている。
無意識が入る余地がない。
だから左手が書いた線には、意識が全部入っている。
わたしが護符を左手で書き始めてから、もう10年以上が経つ。
今でも右手より不器用だ。
それは変わらないし、変えるつもりもない。
ただ、左手で書いた護符の方が、わたしには「本物」に見える。
見た目の完成度ではなく、中身の密度という意味で。
護符を依頼した方に、左手で書いていることを最初から話すことはない。
伝えるのは護符の意味と使い方と、大切にする方法だけ。
左手という話は、聞かれたら話す程度だ。
でも今日ここに書いたのは、誰かに説明したかったからではなく、
自分がなぜそうしているかを、一度きちんと言葉にしてみたかったからだ。
10年以上続けてきた習慣を言葉にすると、自分でも初めて気づくことがある。
「ゆっくりであることが護符の内容を形成する」という部分は、
今日書きながら、初めてそう言語化できた気がした。
感じていたことは前からあった。でも言葉になったのは今日だ。
書くということは、考えを掘り起こす行為だとよく言うが、本当にそうだと思う。
深夜のアトリエで、左手に筆を持って、白い紙の前に座る。
墨が磨れている。デスクライトが黄色い。
手が少し緊張している。
そのすべてが、護符の始まりだ。
そしてその始まりは、いつも左手が最初に知る。
利き手を手放したとき、何が残るかを知っている人は、案外少ないかもしれない。
護符を受け取った人が、何かを変える話
護符は、渡した瞬間に「わたしのもの」ではなくなる。
それは当然のことだが、実感するたびに少し不思議な気持ちになる。
あれだけ時間をかけて、意識を注ぎ込んで書いたものが、手を離れた途端に別の何かになっていく。
渡した相手の生活に溶け込んで、その人の文脈の中で機能し始める。
護符が「完成」するのは、実は渡した後なのかもしれない、と最近は思っている。
ある年の秋、仕事のことで長い迷いを抱えていた女性に護符を渡したことがある。
転職か、留まるか。どちらでもないか。
その方は鑑定を数回重ねて、それでも答えが出ないまま冬になった。
護符を渡したのは、答えを出すためではなかった。
迷っているあいだ、自分の軸を見失わないようにするためのものとして書いた。
渡してから半年ほど経った頃、その方からメッセージをもらった。
「転職した。決める前日に護符を出して、ずっと手に持っていた」とあった。
わたしは護符に「転職しなさい」とも「留まりなさい」とも書いていない。
でもその方の手の中で、護符は「決める力」を引き出す何かになっていた。
護符は答えを与えるものではない、とわたしはずっと思っている。
答えはその人の中にしかない。
護符は、その答えが出てくるまでの時間を、その人が自分でいられるように支える。
守る、というよりも、支える。
その役割の違いを、この仕事を続けながら少しずつ理解してきた。
左手で書くことが、この「支える」という役割に関係しているとわたしは感じている。
完璧に整った護符は、見た目には美しい。
でも受け取る人が感じるのは、美しさではなくて、「誰かがここにいた」という痕跡ではないかと思う。
ガタガタした線の中に、書いた人間の苦労と意志と時間が見える。
その「見える」という体験が、受け取った人に何かを渡すのかもしれない。
護符の効果を、わたしはそういうところに探している。
自分自身のために書く護符のこと
依頼を受けて書く護符の話ばかりしてきたが、自分自身のために書くことも少なくない。
占い師がお守りを持つのか、と思う人もいるかもしれない。
持つ。当たり前のように持つ。
15年この仕事をしていて、自分が一番よく知っているのは、人間には「支えてくれる形」が必要だということだ。
その形が何であれ、存在することが大切で、自分だってその例外ではない。
自分のための護符を書くとき、不思議なことが起きる。
他者のために書くときより、ずっと書きにくい。
左手が余計に震える、ということではなく、何を書くべきかが見えにくい。
他者のための護符は、その人の言葉から「核になるもの」を引き出せばいい。
でも自分のためとなると、自分の声が邪魔をする。
「本当にこれが必要なのか」「こう書いたら意味があるのか」「わたしにはそんな資格があるのか」。
そういう声が、筆先を止める。
ある年の年明け、仕事が重なって身体も気持ちも限界に近かった時期があった。
アトリエに戻って、ひとりで机の前に座った。
白い紙を広げて、左手に筆を持った。
でもしばらくのあいだ、何も書けなかった。
筆を持ったまま、ただ紙を見ていた。
10分か、15分か。
やがて、手が動いた。
考えて書いたのではなく、手が先に動いた。
完成した護符を見て、わたしは少し泣いた。
書かれていたのは、わたしが言葉にできていなかった「今、一番欲しいもの」の形だった。
左手が、右手より正直なのかもしれない。
右手で考えながら書いていたら、もっと「それらしい」護符になっていた気がする。
でも左手は不器用だから、考える前に動く。
そのとき初めて、左手で書くことの別の意味に気づいた。
技術が追いつかないから、意図より先に何かが出てくることがある。
それは、自分でも知らなかった自分の声かもしれない。
護符を書くという行為が、占いの一形式でもあるということを、そのとき改めて思った。
夜が護符に与えるもの、光の話
護符を書くのは、ほぼ必ず夜だ。
昼間に書いたことがないわけではないが、夜でないと「入れない」感覚がある。
昼間の光は均等すぎる。
デスクライトひとつの黄色い光の中では、影が濃くなる。
紙の白さが、違って見える。
その「違う見え方」が、護符を書く空間を作るのだと思う。
光の質が変わると、見え方だけでなく、意識の向き方も変わる。
明るい部屋では意識が外に向かいやすい。
窓の外の気配を感じたり、別の場所のことを考えたり。
でも深夜の一灯の下では、意識が自然と内側に向かう。
手元しか見えないから、手元のことだけを考える。
護符を書く環境として、この「しか見えない」状態が理想だとわたしは思っている。
あるとき、旅先のホテルの部屋で護符を書いたことがある。
翌日に急ぎで必要になって、持参していた紙と墨を使った。
ホテルの照明は均一で、アトリエとはまったく違う光だった。
電気をひとつだけ残して、他を全部消した。
窓の外には知らない街の夜景があった。
それでも、デスクライトひとつにしたその瞬間から、空間が変わった。
光の量ではなく、光の「方向」が大切なのだと、そのとき思った。
光が一方向から来るとき、影がはっきりする。
影がはっきりすると、輪郭が浮かびあがる。
護符を書くとき、記号の輪郭と自分の意図の輪郭が、同時に浮かびあがる感覚がある。
夜という時間帯そのものも、護符の書き手に影響を与えていると思う。
深夜は、日中に積み重なった情報や感情が少しずつ沈んでいく時間だ。
表面がなめらかになって、底の方にあるものが見えやすくなる。
護符に込めるべき「核」を探すのに、その時間は向いている。
左手の不器用さと、夜の静けさと、一灯の光。
その三つが揃ったとき、わたしにとって護符を書く場所が完成する。
道具よりも、環境よりも、その「揃い方」が大切だとずっと感じている。
そしてその揃い方は、意図して作ることもできるが、時に自然に訪れることもある。
そういう夜に書いた護符は、翌朝見ても違う、とわたしは感じる。
自分で書いたはずなのに、少しだけ、知らない誰かが書いたように見える瞬間がある。
その瞬間が好きだ。
自分を超えた何かが通り抜けていったような、静かな手応えがある。
