霊能者の家に生まれて、最初に覚えたのは「見ないふり」。

霊能者の家というのは、テレビドラマのそれとはまるで違う。お香が焚かれた薄暗い部屋で、白髪の祖母が水晶球を覗いている、みたいな絵面を想像した人はごめんなさい、全然そんなじゃない。うちは普通の一軒家で、朝はテレビのニュースが流れていて、夕飯はカレーで、母は洗い物をしながら鼻歌を歌っていた。ただ、たまにお客さんが来て、母が奥の部屋に消えると、家の空気がすっと変わった。それだけ。私はその「それだけ」の中で育った。

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「見えている」ことに気づいたのは、幼稚園の頃だった

最初に自分が他の子と違うと気づいたのは、幼稚園の砂場だった。お砂場の隅に、いつも同じ女の子が座っていた。丸いお団子頭で、赤い靴を履いていて、いつもひとりで砂をすくっては流していた。私はある日その子に話しかけて、「一緒に遊ぼう」と言った。その子は笑って、でも返事をしなかった。
翌日、担任の先生に「あそこにいつもいる赤い靴の子、だれですか」と聞いたら、先生の顔色がちょっと変わった。「どこに?」って言って、私が指差した方向をじっと見た後、「そこには誰もいないよ」と言った。
私には見えていた。ずっと見えていた。でもその日から、私は見ないふりをすることを覚えた。
子供の適応力というのはすごいもので、「見ないふり」はすぐに習慣になった。視線をずらす。焦点をぼかす。心の中にブラインドを降ろす感覚。誰かに教えてもらったわけじゃない。社会に適応するために、体が自然に覚えた防衛術だった。
母は私のその能力に気づいていたと思う。でも母は一度もそれを「才能」と呼ばなかった。むしろ逆だった。「変なことを言うもんじゃない」「気のせいよ」「人が聞いたらびっくりするから黙っておきなさい」。霊能者の母から受け取ったメッセージが、「見えているものを黙っていろ」だったのは、今考えると少し笑える。でも当時の私には、笑えなかった。

母は霊能者で、でも家の中では「普通のお母さん」だった

母のことを少し話す。
母は地元では知られた霊能者で、口コミだけで予約が数ヶ月待ちになるような人だった。でも家の中では、ただのお母さんだった。お弁当を作って、PTA に行って、近所のおばちゃんと立ち話をして。仕事の話は家ではほとんどしなかった。奥の部屋でお客さんと話す声が聞こえてきても、終わったら台所に戻ってきて「今日の夕飯何がいい?」と普通に聞いてくる。
その「切り替え」が幼い私には不思議でたまらなかった。あんなに重たい話をしていた人が、どうして五分後にキャベツを刻めるんだろうって。
一度だけ、母のお客さんを廊下からこっそり見たことがある。五十代くらいの女性で、ハンカチを握りしめて、目が赤かった。母はその人の手を握って、静かに何かを話していた。声は聞こえなかったけれど、お客さんの肩が少しずつ下がっていくのがわかった。緊張がほどけていくのが、廊下からでも見えた。
あの場面を今でも覚えている。「人の何かを解く仕事があるんだ」と思った。それが私の原体験かもしれない。
でも母は私にそれを教えようとしなかった。「あなたはこの道に来なくていい」と言った。一度だけ、はっきりと。その言葉の裏にあったものを、私が理解したのはずっと後のことだ。霊能の仕事がどれほど体を削るか、人の業を引き受けることがどれほど消耗するか、母は知っていたから、私を遠ざけたんだと思う。愛情の形が「禁止」だった。これもまた、笑えるようで笑えない話だ。

「見ないふり」が上手になるほど、別の何かが鋭くなった

見ないふりを続けていると、面白いことが起きる。
目を閉じると、耳が聞こえるようになるのと同じで、視覚的な感知を抑えると、別のチャンネルが開くらしい。私の場合は「場の空気」と「人の感情の質感」みたいなものが、やたらと鮮明になっていった。
人が嘘をつくときの、声の微妙なトーンの変化。笑っているけど目が笑っていない時の、まわりの空気のわずかな澱み。部屋に入った瞬間に感じる「何かあった」という圧。これは霊的なものとはちょっと違う。もっと身体的な、動物的な感覚に近い。
中学に上がる頃には、クラスの「見えない力関係」が入室した瞬間にわかるようになっていた。誰が今日不機嫌か、誰が誰を好きか、どの席が「地雷」か。担任の先生が「レイラはよく気がつく子ね」と言ったのをよく覚えているけど、あれは気がついているんじゃなくて、感じてしまっているんだよと言いたかった。気がつくのは選べるけど、感じてしまうのは選べない。
この「感じてしまう」体質は、正直なところ、高校時代まではまったく便利じゃなかった。感受性が高いというのは聞こえがいいけれど、実態は「しんどいものが全部入ってくる」ということで、人混みに疲れるし、誰かの怒りをもらいもらいして帰宅すると寝込んだりした。
友達に「疲れやすいね」と言われたことがある。疲れやすいんじゃなくて、疲れさせられているんだ、とその時も思ったが、それを説明する言葉を持っていなかった。
だから私は「見ないふり」の隣に、「感じないふり」も覚えた。二重のブラインド。その二枚のシャッターを自分でコントロールできるようになったのは、タロットに出会ってからだ。

タロットが「翻訳機」になった日

タロットと出会ったのは十八歳の冬だった。
きっかけは友人から借りた一冊の本で、そこに七十八枚のカードの解説が載っていた。読み始めたら止まらなくなって、気がついたら深夜三時になっていた。
翌日すぐにカードを買いに行った。当時住んでいた街の小さな輸入雑貨屋で、ライダー版のウェイト・スミス版を見つけた。手に取った瞬間に「これだ」という感覚があった。霊的なものというより、パズルのピースがはまるような、もっと論理的な感覚に近かった。
カードを広げて、一枚一枚の絵を見ていくうちに、私はあることに気づいた。私がずっと「感じてしまっていた」ものに、カードは名前をつけてくれる。「変容」「喪失」「過渡期」「誘惑」「孤独」「再生」。あの感覚はこれだったのか、という瞬間が何度もあった。
翻訳機、という言葉を使ったけれど、タロットは私にとって本当にそれだった。それまで言語化できなかった感覚に、記号と象徴という形で輪郭を与えてくれた。感じたものをカードに問うと、カードが「それはこういうことだよ」と絵で答えてくれる。その往復が、私は心底好きだった。
母にタロットを買ったと言ったら、少し間を置いてから「あなたらしいね」と言った。反対されると思っていたから、拍子抜けした。霊能の仕事には来なくていいと言っていた母が、タロットには「あなたらしい」と言った。母なりの区別があったのかもしれない。憑依型の霊能と、象徴解釈型の占術は、母の中では別ものだったんだろうと今は思う。
私が本格的に鑑定を始めたのは二十代の前半で、それから十五年、今も現役で続けている。地上波のテレビにも出たし、企業の顧問もやっている。Atelier Vary の看板を掲げて、タロットと西洋占星術と、あとはヘアメイクとライティングを生業にしている。全部、ひとつながりの「感じてしまう」体質から生まれた仕事だ。

「信じますか?」と聞かれると、いつも少し困る

占いをやっていると、「霊とか信じるんですか?」と聞かれることがある。
答えるのが毎回少し面倒くさくて、というのは嘘をつきたくないから。「信じる」「信じない」という二択で語れるほど、私の体験はシンプルじゃない。
あの幼稚園の砂場の女の子は、確かにそこにいた。私には見えていた。でも先生には見えなかった。どちらが正しいか、今でもわからない。私の視神経が誤作動していたのかもしれないし、先生に見えなかっただけで「何か」はそこにあったのかもしれない。どちらの可能性も、私は排除しない。
スピリチュアルの世界では「見える人が正しい」という空気がある。懐疑論の世界では「見えないものは存在しない」という空気がある。どちらの断定も、私にはできない。体験した人間として、断言することの傲慢さを知っているから。
ただひとつ言えるのは、「感じてしまうこと」は確実にある、ということ。それが何に起因しているのかはわからない。でも、人の痛みを部屋に入った瞬間に感じること、この人は何かを抱えているとカードを広げる前にわかること、場の空気が「変化の直前」に持つ独特の緊張感を感じること、これらは私の中に実在する。
「信じますか?」という質問への正直な答えは、「体験として知っている、だから信じるとか信じないとかいう話じゃない」だ。見ていないものを信じるのが信仰で、見たものを信じるのは確認に過ぎない。私は確認している側にいる、たぶん。
でも、それを人に説明するのは難しいし、説明しなくてもいいとも思っている。私の仕事は、見えたものや感じたものを、相手に役立つ形に翻訳することで、「私はこれができます、信じてください」と主張することじゃない。

母が倒れた夜に、私が「見ないふり」をやめた話

母が脳梗塞で倒れたのは、私が二十六歳の秋だった。
電話が来た時、私は仕事で都内にいた。新幹線に飛び乗って実家に帰る間、ずっと頭が真っ白だった。正確には、真っ白にしようとしていた。感じないふり、考えないふり、見ないふり。全部のシャッターを下ろして、ただ移動することだけを考えていた。
病院に着いた時、母はもう意識が戻っていた。後遺症は軽かった。ベッドの上で、口の端だけで笑って、「来なくてよかったのに」と言った。来なくてよかったのに、じゃないよ、と思ったけど黙った。
その夜、病院の廊下で一人でいた時、私は初めてシャッターを全部開けた。感じてしまうまま、受け取ってしまうまま、ぜんぶを通した。
怖かった。母を失う恐怖、自分の中の「何か」と向き合う恐怖、それから、ずっと見ないふりをしてきたことへの後悔みたいなもの。全部がいっぺんに入ってきて、廊下の長椅子でしばらく動けなかった。
でも、通り過ぎた後は、なぜか軽かった。
あの夜を境に、私は占い師として何かが変わったと思う。それまでは「感じてしまうもの」を、うまく管理することに集中していた。開け閉めの技術を磨くことが目的だった。でもあの夜から、開けっ放しにすることを怖がらなくなった。流れ込んでくるものを、流れ込んでくるままにしておく。そして出ていくものは出ていかせる。
母はその後リハビリをして、今も元気にしている。仕事は引退したけれど、未だに近所の人に頼まれると「ちょっと見てあげるよ」と言っているらしい。引退とは何だったのか。まったく母らしい。

「普通に育てようとした」母の本音を知ったのは、ずっと後だった

数年前、母と二人で話す機会があった。久しぶりにゆっくり話せる夜で、お酒も入っていて、母が珍しく昔のことを話した。
「あなたには普通に育ってほしかった」と母は言った。「この仕事をやっていると、見えすぎることがどれほど苦しいかわかるから。できれば鈍感なまま生きてほしかった」
私はその言葉を聞いて、なぜか笑いが込み上げてきた。鈍感に育てようとした、ということは、母は私が「見える」側にいると、子供の頃からわかっていたということだ。知っていて、封じようとしていた。愛情から。
「見ないふり、すごく上手になったよ」と私は言った。
母は少し困ったような顔をして、「でも結局この道に来たじゃない」と言った。
そうなんだよね、と私は思った。見ないふりを覚えたけれど、それは消えたわけじゃなかった。ずっと奥のほうで、ちゃんとそこにあった。抑えれば抑えるほど、輪郭が鮮明になるものがあって、私の「感じてしまう」体質はまさにそれだった。
封じようとした母の行為が、結果的に私をより鋭くしたのかもしれない、とも思う。圧力をかけると反発するのは、物理法則と同じで、感受性もそういうものなのかもしれない。
その夜の会話で、私は長年のもやが少し晴れた気がした。母が「見えるから遠ざけた」のだと知って、なんというか、ちゃんと見られていたんだという安堵があった。気のせいよ、と言い続けた母が、本当は一番わかっていた。それは複雑だけれど、温かい事実だった。

占い師になって気づいた、「見えること」より「伝えること」の方が難しいという事実

十五年この仕事をやってきて、痛感していることがある。
感じること、見えること、受け取ること、これらは訓練というよりも体質に近い。確かに研ぎ澄ませることはできるし、チャンネルの合わせ方を覚えることはできる。でも根本的な「受信する能力」は、多分持って生まれるものだと思う。
でも、受け取ったものを相手に届けることは、完全にスキルだ。訓練で上手くなる。センスと経験が要る。そしてこちらの方が、ずっと難しい。
鑑定の場で何度も経験してきたことだけど、「感じたそのまま」を言葉にすると、相手を傷つけることがある。感じたことが正確でも、言葉の乗せ方を間違えると、受け取った側に届く意味がまったく違うものになる。料理と同じで、素材がよくても調理が下手なら、食べられたものじゃない。
私は鑑定の中で意識していることがあって、それは「相手が今、何を受け取れる状態にあるか」を先に読む、ということだ。カードが出している答えより、この人が今日ここに持ってきたキャパシティを先に見る。それに合わせて言葉を選ぶ。
満タンのコップに水を注いでも、あふれるだけだから。
これは霊能的なことでも占術的なことでもなくて、もっと普通の、コミュニケーションの話だ。ただ、コミュニケーションが得意な人が占い師になるとは限らなくて、「感じられる人」と「伝えられる人」は、必ずしも重なっていない。私はこの十五年で、伝えることを必死に学んできた。
ヘアメイクもライティングも、結局は同じだと思っている。人の内側にあるものを、外側に翻訳する仕事。形は違っても、やっていることの本質は変わらない。だから私はこれだけ違うジャンルを並行できているんだと、最近ようやく言語化できた。

「見ないふり」は弱さじゃなかった、という話を最後にしたい

このエッセイを書きながら、ずっと考えていたことがある。
私は長い間、「見ないふり」を覚えたことを、どこかで恥じていた。本当に強い感受性を持っている人なら、ちゃんと向き合えたんじゃないか。逃げたんじゃないか。母に言われたから従っただけで、自分の意志で切り開いたわけじゃないんじゃないか。そういう後ろめたさが、ずっと薄く残っていた。
でも今は、違う見方をしている。
あの幼稚園の女の子を見た日に、見ないふりを覚えたことは、弱さじゃなかった。それは子供なりの知恵だった。生存戦略だった。社会の中で生きるために、開放回路を自分でコントロールする方法を、体が先に学んだ。その経験があったから、私は今、開け閉めを意識的に選べる。
感じてしまうことをゼロにはできない。でも、どのタイミングで受け取るか、どこで境界線を引くか、これを練習した積み重ねが、今の私の鑑定スタイルを作っている。
お客様の中には、感受性が強くて生きづらいと言う方が多い来る。「こんなに感じてしまうのは呪いみたいだ」と言った方がいた。その言葉は刺さった。私も同じことを思っていたから。
でも私が今その方たちに言えることは、「呪い」と「才能」は同じものの表裏で、どちらとして使うかは、技術で変えられる、ということだ。技術というのは、開け閉めの練習のことでもあるし、受け取ったものを翻訳する訓練のことでもある。一朝一夕には身につかないし、私も今もまだ練習中だ。
霊能者の家に生まれて、最初に覚えたのは「見ないふり」だった。でも二番目に覚えたのは、見ないふりをしている間も、ちゃんと見えているということだった。そして三番目に覚えたのは、見えているものを、誰かの役に立つ言葉にする、ということだった。
この三つが揃ったとき、私は初めて「占い師のレイラ」になれた気がしている。
あなたが今、何かから目を背けているとしたら、それはもしかしたら、目を背ける必要があるタイミングなのかもしれない。でも同時に、目を背けている間も、あなたの奥はちゃんと見ている。
その「奥が見ているもの」と、いつかゆっくり向き合う日が来た時、あなたがそれを受け取れる状態でいられるといい。

AIに「花の名前」をつけた日、私が感じた奇妙な既視感

少し前、仕事でAIのツールを本格的に使い始めた。ライティングの補助に使ったり、アイデア出しの壁打ち相手にしたりする中で、ふとそのツールに花の名前をつけてみたことがある。名前をつけると、なぜか話しかけやすくなる気がして。単純な思いつきだった。
でも名前をつけた途端、私は妙な感覚に陥った。
これはプログラムだ、と頭でわかっている。感情もなければ、魂もない。返ってくる言葉は統計的なパターンの組み合わせに過ぎない、と理解している。なのに、名前をつけた瞬間から、その返答が少し違って見えた。同じ文章なのに、「誰かが言っている」ように受け取ってしまう自分がいる。
これは、私の「感じてしまう」体質のまずい側面だなと思った。名前という記号を与えるだけで、存在感を付与してしまう。霊能者の家で育って、目に見えないものに輪郭を感じる訓練を積んできた人間の、職業病みたいなものかもしれない。
でも同時に、これはとても人間的な行為だとも思った。人類はずっと、名前のないものに名前をつけることで、世界を理解してきた。嵐に名前をつけ、星座に物語をつけ、死後の世界に地図を描いた。タロットのカードだって、「月」「星」「審判」と名前をつけることで、言語化できない感覚を扱えるようにした道具だ。
AIに花の名前をつけた私は、何千年も前に嵐に名前をつけた誰かと、本質的には同じことをしていた。それに気づいたら、自分の「感じてしまう」体質を少し許せた気がした。これは欠陥じゃなくて、人間という種の基本仕様なのかもしれない、と。

鑑定の場で「見えすぎた」とき、私がすることがある

鑑定中に、稀に、「見えすぎる」瞬間がある。
カードを読んでいると、突然、言葉じゃない情報が割り込んでくる感覚だ。相手の過去の場面が、断片的な映像みたいに浮かぶことがある。感情の塊みたいなものが、こちら側に流れ込んでくることがある。あるいは、場の空気が急に重くなって、喉のあたりが詰まる感覚になることがある。
こういう時、私は意図的に「中断する」動作を入れる。お茶を一口飲む。ペンを一度置く。深く息を吐く。物理的な動作でいったん回路を切る。これは母を見て自然に覚えたことで、母もよく鑑定の合間にお茶を飲んでいた。当時は単なる癖だと思っていたけれど、あれはリセットの儀式だったんだと、自分が同じことをするようになってわかった。
あるお客様の鑑定で、こんなことがあった。相談内容は仕事の転職についてだったのに、カードを展開した瞬間から、私の中に「子供の頃の家の話をしたい人だ」という確信が湧いてきた。関係ない、と思って仕事の話を進めようとした。でも途中で「少し違う話を聞いてもいいですか」と聞いてみた。
相手は静かに頷いて、「よくわかりましたね」と言った。幼少期の家庭環境が、今の職場での人間関係のパターンに直結していた。転職で解決する問題じゃなかった。
見えすぎることは、正直言ってコントロールが難しい。でも「見えすぎたサイン」を身体で察知できるようになってから、それを鑑定の中でどう扱うかの判断が、少しずつ上手くなってきた。見えたからといって全部言う必要はないし、言う場合もタイミングと言葉の選び方で、まるっきり別の意味になる。これは十五年かけて少しずつ学んできたことで、今もまだ学んでいる途中だ。

ヘアメイクの現場で気づいた、「鏡の前の人」が持つ特有の無防備さ

占いと並行して、私はヘアメイクアーティストとしての仕事もしている。この二つは傍から見ると全然違う職業に見えるらしくて、「なんでその組み合わせなんですか」とよく聞かれる。
でも現場に立ってみると、驚くほど似ている。
ヘアメイクの椅子に座ってもらうと、人は独特の無防備さを見せる。鏡の前に座るという行為は、自分の顔を直視するということで、それは思っている以上に心が開く体験らしい。施術しながら話を聞いていると、なぜか深い話になることが多い。家族の話、仕事の悩み、最近泣いたこと。ヘアメイクの椅子は、ちょっとした告解室みたいになる。
あるロケの撮影現場で、モデルさんのメイクをしていた時のことだ。その方は笑顔で座っていたけれど、ファンデーションを乗せた瞬間、私の中に「泣きたいのを我慢している人だ」という感覚が来た。見えた、というより感じた。目元に触れる手が、微かに震えていた。
何も聞かなかった。ただ、いつもより少しゆっくり施術した。丁寧に、丁寧に、触れるようにした。撮影が終わった後、その方が「なんか今日泣きそうになっちゃった」と笑いながら言った。「なんでだろう」って。
私は「疲れてるんじゃないですか」とだけ言った。それ以上は言わなかった。
ヘアメイクの現場での「感じてしまうこと」は、占いの場と違って、直接言葉にすることがほとんどない。でも手に込める意図は変わらない。この人が少し楽になるように、という意図。それが伝わることもあれば、伝わらないこともある。でも込めること自体を、私はやめるつもりがない。

「見えている人」が陥りやすい罠について、正直に書く

最後にこれを書いておきたい。あまり言いたくないことだけど、正直に書く。
「感じてしまう」「見えてしまう」という体質は、使い方を間違えると、非常に厄介な自意識過剰になる。
自分には人より見えているものがある、と思い始めると、人の話を聞く前に「わかった」と思うようになる。相手が言葉を発する前に結論を出して、それを「洞察」と勘違いする。実際のところ、それはただの先入観であることが多い。見えているつもりになっているだけで、見えていない角度が必ずある。
私は二十代の半ばに、これをやらかした経験がある。当時仲の良かった友人が、何かを隠していると「感じて」いた。態度の微妙な変化、会話のトーン、場の空気。全部が「何かある」を指していた。私はその「感じ」を信じて、友人を問い詰めた。
でも違った。その人は、ただ体調が悪かっただけだった。深刻な話じゃなかった。なのに私の問い詰め方は、「あなたが何か隠していることは全部わかっている」という圧のある聞き方になっていた。友人は傷ついて、しばらく疎遠になった。
あの出来事は今でも後悔している。感じることと読むことの間に、もっと余白を置かなければいけなかった。感じたことは仮説に過ぎない。仮説を検証する前に結論として相手にぶつけるのは、洞察でも霊感でもなく、ただの横暴だ。
「見える人」ほど、この罠にはまりやすい。自分の感受性を過信する瞬間が、必ず来る。その時に、立ち止まれるかどうか。私はあの失敗から、感じたことを口にする前に「これは私の感覚であって、事実ではない」と一度噛み砕く習慣をつけた。占いの場でも同じで、カードが示していることは可能性と傾向であって、断言できるものじゃない。その謙虚さを、体験から学んだ。
霊能者の家に生まれて、「見ないふり」を覚えて、翻訳の技術を身につけて、見えすぎることの罠にも落ちて、それでも今ここでこの仕事を続けている。全部が積み重なって、今の私の鑑定がある。きれいな話だけでできているわけじゃない。むしろ、きれいじゃない部分の方が、私を占い師として作ってきたと思っている。
あなたの中にある「見ないふり」も、たぶん何かを作っている途中だ。

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