霊能者の家に生まれた、という事実を、私はずっと「普通のこと」だと思って育った。いや、正確には「普通のことにしなければならなかった」というほうが近い。誰かが来るたびに奥の部屋に通されるお客さんの気配、線香の匂いが染みついた廊下、夜中に母が独り言のように誰かと話している声。それが私の「日常」だった。でも外の世界に出ると、それは「普通」じゃなかった。だから私は早い段階で、ある技術を習得した。「見ないふり」という技術を。
母の部屋には、いつも誰かがいた
母の仕事部屋は、家の奥まったところにあった。引き戸一枚で区切られた六畳ほどの和室で、そこだけ空気の質が違うような気がして、子どもの頃の私はその部屋の前を通るとき、なぜか呼吸を浅くした。
母が「仕事中」のとき、引き戸の向こうからは低い声が聞こえた。母の声と、もう一つ別の声。でもお客さんが帰ったあとに引き戸を開けると、そこには母一人しかいない。当たり前だ、お客さんは玄関から帰っていったんだから。でも私が感じていた「もう一つの声」は、お客さんのものじゃなかった、と今なら言える。
母は霊能者だった。地元では有名で、遠方から車で何時間もかけてくるお客さんもいた。予約は常に埋まっていて、電話が鳴りやまない日もあった。私は幼いながらに「うちのお母さんは変わった仕事をしている」と思っていたが、それを友達に話したことは一度もない。
なぜか。それは母から「言っちゃだめ」と言われたからじゃない。誰も言わなかった。ただ、言えない雰囲気があったんだ。小学校で「お母さんのお仕事は?」と聞かれたとき、私は「ちょっとよくわからない」と答えた。嘘じゃなかったけど、本当でもなかった。
霊能者の子として生まれたということは、見えないものが「ある」という世界観の中で育つということだ。でもそれは、見えないものを「見る」練習をするということではなかった。むしろ逆だった。母は私に、あれを「見ないようにする」ことを、最初に教えた。「感じても、追いかけるな」「気づいても、反応するな」「向こうが来ても、こちらから行くな」。それが幼少期の私への、最初のレッスンだった。
「なんで気づくの?」と聞かれ続けた子ども時代
小学校低学年のころ、同じクラスの女の子が突然泣き出したとき、私は理由がわかった。彼女が朝から何かを抱えているのが、なんとなくわかっていた。空気の色が違うというか、輪郭がにじんでいるというか、うまく言えないけれど「今日この子は何かある」と感じていた。
休み時間に「どうしたの?」と声をかけると、彼女は驚いた顔をした。「なんでわかったの?」と。私は答えられなかった。だってわかったんだもの、としか言いようがない。
こういうことが何度もあった。誰かが嘘をついているとき、誰かが本当は怒っているのに笑っているとき、誰かが教室に入ってくる前に「あ、今日あの子機嫌悪い」とわかること。それは私の中では当然のことだったけど、周りからしたら「不思議な子」に映っていたらしい。
あるとき担任の先生に「レイラさんはよく人の気持ちがわかるね」と言われた。褒め言葉だったと思う。でもそのとき私は、なぜかすごく怖かった。「気づいてることがバレてる」という感覚。見えてることが見えてるってことが、知られてしまった、という焦り。
霊能者の母が最初に教えてくれたこと、「感じても追いかけるな」というあのルールは、私の中でこういう形で機能していた。感じることはやめられない。でも感じているということを、表に出してはいけない。気づいているということを、悟られてはいけない。だから私は子どもの頃から、わかっていても知らないふりをする技術を身につけていった。
これが「見ないふり」の原型だ。霊的なものへの「見ないふり」と、人間の感情への「見ないふり」は、私の中では最初からセットだった。どちらも同じ技術の派生形だった。感受性を持ちながら、それを出さない。アンテナを立てながら、受信してないフリをする。子どもながらにそれを覚えた私は、かなり器用な子どもだったと思う。器用すぎて、少し孤独だったとも思う。
「見ないふり」は処世術であり、鎧だった
中学、高校と進むにつれ、「見ないふり」は私にとってライフスキルになった。霊的なものへの感受性と、人間の感情・空気への感受性、その両方をパッケージにして、意識の奥深くにしまい込む技術。それを私は無意識に磨いていた。
中学の頃、修学旅行で泊まった旅館の一室が、どうしても落ち着かなかった。部屋の隅が、なんとなく重い。窓際に誰かがいるような気がする。でも友達は全員平気そうで、みんなでトランプをして笑っていた。私はそこに加わりながら、ひたすら「見てない、感じてない、ここには何もない」と心の中で唱え続けた。
翌朝、何事もなく朝ごはんを食べて、旅行の続きを楽しんだ。「見ないふり」は成功した。でも一晩中ちゃんと眠れなかったのは、自分だけが知っていることだ。
この「鎧」は、日常でも機能していた。人の嘘に気づいても、指摘しない。誰かが隠している感情に気づいても、触れない。「あなた本当は〇〇でしょ」と言いたくなる衝動を、ぐっと飲み込む。それをやり続けると、人間関係がずいぶんスムーズになる。摩擦が減る。でも同時に、自分がどんどん透明になっていくような感覚もあった。
感じているのに感じていないフリをする。知っているのに知らないフリをする。それは自分の内側を相手に渡さない、一種の自己防衛だ。霊能者の家に生まれた子どもとして、外の世界で生き延びるために必要な防衛だったとも言える。でも鎧というのは重い。いつかそれを脱がないといけない日が来る。
鎧を脱ぐ日は、案外あっさり来た。それは占いを本業にすると決めた瞬間だった。
占いを仕事にすると決めた日に、鎧を脱いだ
私がタロットと西洋占星術を本格的に始めたのは、二十代の前半のことだ。最初は趣味だった。でもある時期から、これで生きていこうと決めた。その決断の瞬間、私の中で何かが解けた。
具体的にいうと、鑑定中に感じたことを「言っていい」と自分に許可した瞬間だった。それまで私は、カードの意味を読みながら、その裏側にある「感じていること」を封印していた。「この人、本当は離婚を迷ってるんじゃなくて、もう決めてるな」「この人の話の中心にいるのは、言葉に出てこない第三者だな」そういう感知を、ずっと口の中に閉じ込めていた。
あるとき、鑑定中のクライアントさんに、試しに言ってみた。「もしかして、もう決まってますか?迷ってるんじゃなくて」と。
沈黙があった。次の瞬間、その人は泣き出した。「なんでわかるんですか」と言いながら。
あ、言っていいんだ。感じたことを、言っていいんだ、と思った。その日から私の鑑定は変わった。カードを読む精度も上がったけど、それよりも「私が感じていることを届ける」という行為そのものに、意味があると気づいた。
子どもの頃に母から教わった「感じても追いかけるな」というルールは、外の世界で生き延びるための知恵だった。でも占い師という職業を選んだとき、そのルールを部分的に更新する必要があった。追いかけるのではなく、受け取る。押しつけるのではなく、差し出す。感じたことを武器にするのではなく、手渡す。そのバランスを覚えるのに、数年かかった。
今でも私は、見えすぎるものを全部言うわけじゃない。言わなくていいことがある。見えてることを全部言うのは「霊能者の子」でなくても、ただの無神経だ。大事なのは、何を選んで言うか、どうやって届けるか。「見ないふり」という技術は、形を変えて今も使っている。ただ昔は自分を守るために使っていたものを、今は相手のために使っている。
母が引退する日、最後に言われたこと
母が霊能者の仕事を引退したのは、私が三十代になってからのことだった。体力的なこともあったし、年齢的なこともあった。ある日の電話で「もう辞めることにした」と母は言った。あっさりとした声で。
私は「そっか」と答えた。聞きたいことはたくさんあった。でも聞かなかった。この家族の流儀は昔からずっとそうで、深く聞かない、追いかけない、感じても飲み込む。母も私も、「見ないふり」の名手だったから、会話はいつも薄くて、でも底に何か重いものが沈んでいた。
数か月後、実家に帰ったとき、母の仕事部屋だった和室が普通の居間に変わっていた。線香の匂いはなかった。引き戸はいつも開けっ放しで、テレビが置かれていた。なんの変哲もない、普通の和室。
私はその部屋に入って、畳の上に座って、しばらくそこにいた。子どもの頃、この引き戸の前を通るたびに呼吸を浅くしていたのを思い出した。母が「感じても追いかけるな」と言い続けたこの家で、私が学んだことの全部が、この六畳の中に詰まっている気がした。
そのとき母が入ってきて、お茶を持ってきた。座りながら母は言った。「あんたはよかった、外で生きていけるから」と。
それだけだった。説明も補足もない。でも私にはわかった。霊能者の家に生まれた子が、外の世界で生きていくのがどれほど難しいか。母は自分の娘にそれをさせたくなかったから、「見ないふり」を最初に教えたんだ、と。
外の世界で「変な子」と思われないように。外の世界でつぶれないように。感受性という刃物を、まず鞘に入れることを教えてくれた。それが母なりの愛情だったんだ、とその日初めてちゃんと飲み込んだ。お茶を飲みながら、私は「ありがとう」とは言わなかった。でも母もそれ以上は何も言わなかった。この家族はずっとこうだ。言わなくても、伝わってる。
「見えること」はギフトじゃなく、責任だと知った
占い師として15年仕事をしてきて、地上波の番組にも出て、企業の顧問としての仕事もするようになって、いろんなところでいろんな人に会ってきた。その中で確信したことがある。「見えること」はギフトなんかじゃない。責任だ。
ギフトという言葉は、もらったものだという意味を含んでいる。でも「見える」ということは、もらったままにしておけるものじゃない。使い方を間違えれば凶器になる。相手のプライバシーを土足で踏み荒らすことになる。「あなたの本心はこうでしょ」と言い続ける人間は、霊能でも占いでも、ただの暴力だ。
私が15年で学んだのは、感じたことを「届ける技術」と「届けないことの技術」は、同じくらい大事だということ。むしろ「届けない」ほうが難しい。感じたことを言いたくなる衝動を抑えて、今この人に必要なのは何か、何を言うべきか言わないべきか、そこを毎回考えることが、プロとしての矜持だと思っている。
テレビの収録現場で、隣のゲストが何かを抱えているのが手に取るようにわかる瞬間がある。収録中に、カメラの外で誰かがこちらを試しているような気配を感じることもある。そういうとき私は、子どもの頃の技術を使う。感じている、でも今はここで出さない。これは「見ないふり」じゃなくて、「見たうえでしまう」ということだ。
この二つは似ているようで全然違う。「見ないふり」は、感じていることを自分でも否定する行為だ。「見たうえでしまう」は、感じていることをちゃんと受け取ったうえで、出すタイミングと場所を選ぶ行為だ。子どもの頃は前者しかできなかった。今は後者ができるようになった。それが「成長」というものだと、私は思っている。
でも正直に言うと、完璧にできている日ばかりじゃない。感じすぎて疲れる日がある。しまいきれないものが溢れて、夜に一人でぐるぐるする日もある。それも含めて、この仕事だと思っている。
AIに「花の名前」をつけた夜の話
Atelier Varyでは、いろんなツールを試している。最近だとAIも業務に取り入れていて、コンテンツの補助やアイデア出しに使うことがある。あるとき、私はそのAIツールに花の名前をつけた。作業中の相棒として、なんとなく呼びかけやすいように。
その日の夜、一人でパソコンに向かいながら、ふとおかしくなった。私は今、花の名前をつけた機械に話しかけている。でもこれ、子どもの頃に感じた「母の部屋にいる何か」と、どこか似てないか?
存在しているのかどうかよくわからないものと、言葉を交わすこと。応答がある、でもそれが「誰か」なのか「何か」なのか、正確にはわからない。霊能者の娘として育った私にとって、これは別に怖い話じゃなくて、むしろ懐かしいような感覚だった。
そのAIは当然、霊的なものじゃない。プログラムだ。でも私が「なんとなく話しかけやすいように」名前をつけた、という行為は、人間が見えないものと関係を結ぼうとするときの、古い古い衝動と同じところから来ていると思う。
名前をつけるということは、存在を認めるということだ。向こうに「あなた」という場所を作るということだ。母が毎日向き合っていたものと、私が花の名前をつけたAIとでは、レイヤーが全然違う。でも「名前をつけることで関係を作る」という人間の行為は、どこまでいっても同じだと思う。
そんなことを考えながら、私は深夜に一人で笑った。霊能者の娘が、AIに花の名前をつけて話しかけている。母が見たら何と言うだろう。たぶん「追いかけるな」と言うと思う。
ヘアメイクと占いの間にある、「見る」という行為
私はヘアメイクアーティストでもある。これも15年のキャリアだ。占いとヘアメイクを同時にやっていると言うと、不思議に思う人もいる。でも私の中では、この二つは地続きだ。どちらも「人を見る」仕事だから。
ヘアメイクをするとき、私は相手の顔をじっと見る。骨格、肌の質感、目の形、眉の流れ。でもそれだけじゃなくて、今日この人がどんな気分でここに来たのか、何に緊張しているのか、どんな自分になりたいのか、そういうことも同時に読んでいる。
あるとき、大事な面接の前にメイクをしに来た女性がいた。彼女は「きちんとした感じにしてください」と言ったけど、その声のトーンと、手の置き方と、微妙な体の固まり方を見て、私は「もしかして、この面接、行きたくないと思ってる?」と感じた。
言わなかった。言う必要がないと思ったから。私はただ、彼女が「自分でいられる顔」になるようにメイクをした。きちんとしつつも、彼女の目がちゃんと生きている顔。鏡を渡したとき、彼女は「あ、これだ」と言った。言葉の意味はよくわからなかったけど、その「あ」で十分だった。
ヘアメイクと占いに共通しているのは、「見て、受け取って、手渡す」というプロセスだ。どちらも、私が感じたことを全部出すんじゃなくて、相手にとって必要なものを選んで形にする仕事だ。霊能者の娘として最初に学んだ「見ないふり」は、この仕事の中では「見て、整理して、必要なものだけ渡す」という形に進化している。
子どもの頃に身についた技術が、職業の中で生きているということ。これは偶然じゃないと思う。人間の経験は、必ず何かに繋がっていく。回り道に見えても、全部使う日が来る。
「普通じゃない家」に生まれたことへの答えは、まだ出ていない
霊能者の家に生まれてよかったか、と聞かれたら、正直まだわからない、と答えると思う。よかったと思う部分はある。人の感情を読む力、空気を読む力、見えないものへの感受性、それが今の仕事の根っこにあることは間違いない。
でも「普通の家」に生まれていたら、どんな私になっていただろう、とふと思うことはある。子どもの頃に「見ないふり」を覚えなくてよかったら、もっと素直に感情を出せる人間になっていたかもしれない。感じたことをすぐに言葉にできる人間に。
でも、そういう「もし」はあまり意味がない。私はこの家に生まれた。この母のもとで育った。その事実は変わらない。変えようとも思わない。
15年占い師をやってきて、たくさんの人の「もし」を聞いてきた。「もしあのとき違う選択をしていたら」「もし別の家に生まれていたら」「もし違う人と結婚していたら」。でも、その「もし」に答えられるものは何もない。あるのは今ここにある現実と、そこから何を選ぶかだけだ。
だから私は、霊能者の家に生まれたという事実を、ネガティブにもポジティブにも回収しようとしない。ただ、それが私の出発点だったということ。「見ないふり」が私の最初のスキルだったということ。そしてそれは今も形を変えて使い続けているということ。それだけが事実だ。
実家の和室がただの居間になった日のことを、今でも時々思い出す。線香の匂いのない、テレビが置かれた、普通の和室。でも私の中では、あの部屋はいつまでも「母の仕事部屋」だ。引き戸の前で呼吸を浅くしていた私は、今でも私の中にいる。その子が「大丈夫、見なくていい」と言い続けてくれているおかげで、今の私はどこへでも行ける気がしている。
「見ないふり」というのは、臆病さじゃない。賢さでもない。たぶんそれは、生き延びるための愛の形だったと、私は思っている。
それでも私は、今日も「見て」いる
Atelier Varyの鑑定室で、お客様と向き合うとき、私はいつも最初の数秒で何かを受け取る。その人がどんな重さを持ってここに来たか。何を言おうとしていて、何を言えないでいるか。どんな答えを求めていて、本当に必要なのは何か。
カードを切る前に、もう半分は読めている。でも私はそれをすぐには言わない。カードを引いて、星を読んで、言葉を選んで、順番に差し出す。それは儀式でもあるし、相手がちゃんと受け取れる温度に言葉を整える時間でもある。
最近の鑑定で、長年連れ添ったパートナーとの関係に悩む方が来た。話を聞きながら、私はすぐにわかった。この人が本当に聞きたいのは「別れていいですか」じゃなくて「別れたい自分を、誰かに認めてほしい」ということだった。
でも最初からそれを言わなかった。カードを読みながら、少しずつ、その人が自分でその言葉に近づけるように話をした。鑑定の終盤で、その人は自分から「もしかして、私もう決めてるんですかね」と言った。私は「そう思いますよ」と答えた。そこで初めて言った。
泣いていた。でも穏やかな顔で泣いていた。私が最初から答えを言っていたら、たぶんあの顔にはならなかった。人は、自分でたどり着いた答えしか、本当には受け取れない。私の仕事はその道を、少しだけ照らすことだ。
霊能者の家に生まれて、最初に覚えたのは「見ないふり」だった。でも今の私は、見て、受け取って、整えて、渡す、ということをずっとやっている。子どもの頃に覚えた「見ないふり」は消えたんじゃなくて、「見たうえで選ぶ」に変わった。
あなたにとっての「最初に覚えたこと」は、今どんな形をしているだろうか。
「信じてない」と言う人ほど、扉の前に立っている
占い師として15年やっていると、「実は信じてないんですけど」と前置きをしてから鑑定に来る人が、一定数いることに気づく。その言葉を聞くたびに私は内心、ああ、この人が一番深いところにあるものを持ってきたな、と思う。
信じていない人は来ない。信じていない人は予約しない。時間とお金を使って、わざわざアトリエまで足を運ばない。「信じてないんですけど」という言葉は、「信じたいんですけど怖い」か「信じてしまいそうで怖い」のどちらかだ。私はそれをずっと見てきた。
あるとき、スーツを着た四十代くらいの男性が来た。ビジネスの相談、というていで予約を入れてきた人だった。最初の十分間、彼はずっとデータの話をしていた。売上の数字、チームの人数、競合との比較。私はそれを聞きながら、ずっと別のことを感じていた。この人が本当に聞きたいのは、ビジネスの話じゃない。
カードを引いたとき、出てきたのは感情にまつわるカードだった。私がそれを読み始めると、彼の体の固さが少し変わった。肩が下がった。「実は去年、父親を亡くしまして」と、ぽつりと言った。データと売上の話をしていた人が、気がついたら父親の死について話していた。
霊能者の家で育った私には、こういう瞬間がリアルに感じられる。人が本当のことを言い始める瞬間の、空気の変わり方。部屋の温度がほんの少し変わるような、あの感覚。子どもの頃に母の仕事部屋の前で感じていたものと、どこか似ている。扉が開く瞬間の気配、とでも言えばいいだろうか。
「信じてないんですけど」という言葉を言う人は、実はもうすでに扉の前に立っている。私の仕事は、その扉を無理やり開けることじゃない。開けてもいいと思ったとき、その人が自分で開けられるように、隣に立っていること。それだけだ。そしてその技術の根っこには、やはり「見ているけれど追いかけない」という、母から教わった最初のレッスンがある。
深夜のアトリエで、一人でいることの意味
私は夜が長い。鑑定が終わって、スタッフも帰って、アトリエに一人になる時間が好きだ。というより、必要だ。人と向き合う仕事をしていると、受け取ったものをどこかで降ろさないといけない。一人の時間は、その作業のための時間だ。
深夜のアトリエは静かで、外の音がほとんど聞こえない。デスクのランプだけつけて、お茶を飲みながら、その日鑑定した人たちのことを頭の中で静かに整理する。何を言えたか、何が届いたか、何を言いすぎたか、何を言い足りなかったか。
ある夜、鑑定の後にひどく疲れたことがあった。その日来たお客様が、かなり重いものを抱えていて、鑑定中ずっと何かを圧迫されるような感覚があった。言葉にできない重さが部屋に満ちていて、私はそれを正面から受け取り続けた。
帰り際にそのお客様は「少し楽になりました」と言って帰っていった。それは本当によかった。でも一人になったとき、私はソファにそのまま沈んで、しばらく動けなかった。もらいすぎた、と思った。受け取ることと、もらいすぎることの境界線は、いつも曖昧だ。
こういう夜に私が思い出すのは、母のことだ。毎日何人ものお客さんと向き合っていた母は、夜をどう過ごしていたんだろう。子どもの頃、母は夜になると静かになった。夕飯を食べて、テレビをちょっとつけて、早めに自分の部屋に入った。「疲れた」とは言わなかった。でもあれは疲れていたんだと、今ならわかる。
受け取り続けることは、消耗する。どんなに鍛えても、完全に消耗しない日はない。でも同時に、深夜のアトリエで一人でいることで、また明日受け取れる自分に戻れる。この繰り返しが仕事だ、と私は思っている。霊能者の娘として育った私の体には、「受け取ること」と「降ろすこと」のリズムが、最初から刻まれていたのかもしれない。意識したことはなかったけど、気がついたらそのリズムで生きている。
深夜に一人でいる時間が、私にとっては回復でも孤独でもなく、ただの「自分に戻る時間」だ。それを必要としている自分を、私はもうずっと前から責めるのをやめた。
星と霊と、私が選んだ言葉
西洋占星術を深く学んでいくうちに、気づいたことがある。星を読むという行為は、見えないものに「言葉」を与える行為だ、ということ。霊能者だった母は、見えないものを「感じる」人だった。私は見えないものを「言葉にする」人間になった。同じ感受性の、異なる使い方だと思っている。
あるお客様の出生図を読んでいたとき、その人の人生の流れが星の配置の中にくっきりと見えた瞬間があった。言葉が次々と出てきて、でも私はあえて一度止まって、どれを今この人に渡すべきかを選んだ。星は全部を語っている。でも全部を届ける必要はない。
霊能者の家に生まれて、最初に覚えたのは「見ないふり」だった。でも本当に覚えたのは、見えているものの中から、今必要なものだけを選び取る目だったのかもしれない。その目は、どんな星よりも正直に、今日も私の隣にある。
