お金の使い方が変わった瞬間を、覚えている。

お金のことを、正面から書こうと思う。
長い間、書けなかったテーマだった。お金の話って、どこか品がないような気がして。でも15年この仕事をしてきて、今ならはっきり言える。お金の使い方は、その人の哲学そのものだ。何を大切にして、何を手放して、どういう未来を信じているか。全部、財布の中に正直に書いてある。

目次

二十代のわたしは、お金が怖かった

最初に言っておくと、わたしは決してお金に恵まれた環境で育ったわけじゃない。親がお金持ちだったとか、投資の英才教育を受けたとか、そういう話じゃまったくない。二十代のわたしは、お金そのものが怖かった。使うことも、持つことも、どちらも怖かった。
なんで怖かったのか、当時はうまく言語化できなかったけれど、今ならわかる。お金を使う=減る=なくなる、という直線的な恐怖が、骨の髄まで染み込んでいたんだと思う。だから常に「いざとなれば」のための備えを最優先にして、目の前にある豊かさには手を伸ばさなかった。欲しいものがあっても「でも……」って一歩引く。食事も、服も、経験も。ちょっといいものに触れようとするたびに、見えない手がわたしの肩を引っ張った。
ヘアメイクの仕事を始めたばかりの頃、撮影現場でプロのアーティストたちが使っている道具を見て、心底羨ましかった。高品質のブラシセット、輸入ものの発色がいいパレット、職人が作ったカスタムポーチ。あれが欲しい、と思う。でも「まだそんな段階じゃない」「もっと稼げるようになってから」って先送りにした。使うことへの罪悪感みたいなものが、ずっとあった。
お金を使うのが怖い人間は、お金に使われている。これはずっと後になって気づいたことだけれど、当時のわたしはまさにそれだった。節約という名の恐怖に、行動を支配されていた。

初めて「自分への投資」に踏み込んだ夜

転機は、ある占星術のセミナーだった。当時のわたしにとってはかなりの金額で、今でも数字をはっきり覚えている。受講料を払う直前、本当に長い時間、申し込みページをスクロールしては閉じ、閉じては開く、を繰り返した。夜中の十二時過ぎ、狭いアパートの机の前で、画面だけが光っていた。
あのとき何が背中を押したかというと、「怖いという感情の正体を確かめたかった」からだと思う。欲しいと思っている。行きたいと思っている。でも踏み出せない。この構造がいい加減おかしいと、自分でも薄々わかってた。怖いなら、怖いまま申し込んでみようと思った。
結果から言えば、そのセミナーで学んだ内容が、のちのわたしのベースになった。占星術の読み方、チャートの解釈、天体の動きと人間の心理の接点。あそこで得た視点は、15年たった今も使っている。あのとき払ったお金が、何百倍もの形で返ってきた、なんて言い方はしたくない。そういう話じゃなくて、もっと根っこの話をしたい。
あの夜、「怖いけど払った」という体験が、わたしの中の何かを更新した。お金を使うことは、自分の未来を信じることなんだと、頭じゃなくて体で知った。その感覚は、一度知ったら後退できない類のものだった。

「ケチる」と「大切にする」は、まったく違う

ここは少し丁寧に書きたい。わたしが「お金の使い方が変わった」というのは、湯水のように使い始めたという話じゃない。むしろ逆で、何を選んで何を選ばないか、その基準が変わった、という話だ。
二十代のわたしは、とにかく「安い方を選ぶ」が正解だと思っていた。安いものを選ぶ=賢い消費者、という図式が刷り込まれていた。でも実際にやってみると、安いブラシは毛が抜けて仕事に使えなくなる。安い靴は半年で底が減って買い直す。安い食事を繰り返すとなぜか元気がなくなって、仕事のパフォーマンスが落ちる。合計すると、全然安くなかった。
「ケチる」と「大切にする」は、見た目は似ているようで、中身がまるで違う。ケチるのは恐怖から来る行動で、大切にするのは価値観から来る行動だ。高くても長く使えるものを選ぶ、は「大切にする」側の話。安いからとりあえず買う、は「ケチる」側の話。この区別がつき始めたのが、二十代の終わりから三十代にかけてだった。
鑑定の道具についても同じだった。タロットカードは消耗品じゃないけれど、使い込んでいくうちに自分のエネルギーが乗るものだと思っている。だから選ぶときはかなり慎重で、「安いから」という理由では絶対に選ばない。最初から「これと長く付き合う」前提で選ぶ。その基準で選んだカードは、今でも手に吸い付くような感覚がある。これが「大切にする」側の選択だ。
お金を使う理由が「安いから」だけになっている時期は、自分の軸が弱くなっているサインだと今は思っている。

アトリエを持つと決めた日の、あの静けさ

アトリエヴァリーを開くとき、わたしは人生で一番大きな「使う」の決断をした。場所を借りる、内装を整える、看板を出す。一つひとつに数字がついてくる。契約書にサインするとき、手が止まった。止まった時間は、たぶん数秒だった。でもその数秒の中に、これまでの自分との対話が全部詰まっていた。
怖いか、と聞かれたらもちろん怖い。でも怖いという感情の質が、二十代のあの夜と変わっていた。二十代の怖さは「失うかもしれない」という縮小の恐怖だった。アトリエを開くときの怖さは「これで本物になる」という拡張の怖さだった。ステージが変わるときの、あの静けさ。派手な確信なんてなくて、ただ静かにわかる、みたいな感じ。
内装を決めるとき、いくつかの案があった。コストを落とせる案もあった。でも「ここに来てくれる人が、扉を開けた瞬間にどう感じるか」を基準にしたら、答えは一つしかなかった。鑑定に来る人は、何かを抱えてくる。その人が扉を開けた瞬間、「ここは安全だ」と感じてほしかった。そのための空間に、ケチるのはおかしい。これは明快な話だった。
お金を使う理由が「誰かのため」になったとき、不思議と怖さが薄れた。自分のためだと迷う。でも来てくれる人のため、と思ったら手が動いた。その体験は今も鮮明で、お金の使い方の基準が「自分の安心のため」から「誰かの体験のため」に変わった瞬間だったと思っている。

占星術が教えてくれた、お金と星の関係

ここで少し、占星術の話を差し込みたい。
西洋占星術では、お金や物質的な豊かさを「牡牛座」と「第二ハウス」が象徴する。牡牛座は感覚の星座で、手で触れられるもの、五感で確かめられるもの、時間をかけてじっくり育てるものを大切にする。早い利益よりも、長く使えるものを好む。第二ハウスはその人が「価値がある」と思うもの全般を示す場所で、お金そのものより「何をお金に変えるか」「何のためにお金を使うか」が問われるハウスだ。
鑑定していると、第二ハウスに天体が多い人と、お金への感覚について話すことがよくある。土星が入っている人は、お金に対して厳格で、なかなか「使う」に踏み出せないことが多い。木星が入っている人は、逆に使うことへの恐怖が薄く、豊かさを信じやすい。でも面白いのは、どちらが正解というわけじゃないことだ。土星の人が慎重に使うお金には、積み重ねてきた重みがある。木星の人が軽やかに使うお金には、循環の速度がある。
わたし自身のチャートにも、第二ハウスには天体がある。その配置が、長い時間をかけて「豊かさとはコントロールじゃなくて信頼だ」と教えてきた、という気がしている。天体の象徴をそのまま人生で体験させられているような感覚が、占星術師をやっていると時々ある。
お金に悩む人のチャートを見ると、たいてい「怖さの根っこ」がどこかに書いてある。それを一緒に読み解いていくのが、わたしの仕事の一部でもある。答えを出すんじゃなくて、その人が自分のパターンを見つける手伝いをする。そこにいつも、お金と時間と感情が絡み合っている。

「使わない」ことが、実は一番高くつく

これはかなり直球に言う。
「使わない」ことのコストを、わたしたちは過小評価しすぎている。お金を使わないことで失うもの、それは時間と機会と体験だ。この三つは、後から買い戻せない。
具体的な場面を話す。ある時期、わたしは撮影の仕事で移動が多かった。交通費をなるべく抑えようと、遠回りでも安いルートを選んでいた。移動時間が増えた分、現場に着いたときの体力が落ちた。疲れた状態でヘアメイクをすると、仕上がりに出る。微妙なところで「なんか違う」が積み重なる。ある日、先輩のアーティストに「Layla、最近顔色が悪い」と言われて、ハッとした。節約した交通費より、仕事のクオリティダウンの方が、よっぽど高くついていた。
それから移動にお金をかけることにした。直行便、乗り換えなし、余裕を持った時間設定。移動がラクになったら、現場での集中力が戻った。仕上がりが変わった。仕事が楽しくなった。これは比喩じゃなくて、文字通りの話だ。
同じことが、食事にも、環境にも言える。自分の状態を整えるためのお金を「贅沢」と呼んで削り続けると、じわじわと何かが消耗していく。仕事のパフォーマンス、創造性、体のコンディション、そして一番怖いのは「自分を大切にする習慣」が失われていくことだ。
使わないことのコストは、家計簿に記録されない。だから見えにくい。でも確実に積み上がっていく。わたしはその「見えないコスト」を、体で払い続けた時期があった。二度と繰り返したくないと思っている。

稼ぐことと、使うことは、同じ筋肉だ

これは長く仕事をしてきて、確信に変わったことの一つだ。
稼ぐ力と使う力は、バラバラの能力じゃなくて、同じ筋肉の表と裏だ。稼ぐのは得意だけど使えない人は、どこかでお金の流れを止めている。使うのは得意だけど稼げない人は、価値を出す筋力が足りていない。この二つがバランスよく動いているとき、お金は本当の意味で「巡る」。
タロットで「ペンタクルの10」というカードがある。ペンタクルはお金や物質を象徴するスートで、10は完成・充足の数。このカードには家族が描かれていることが多く、世代を超えた豊かさ、積み重ねてきた安定、という意味合いがある。このカードをクライアントに引いてもらったとき、わたしはいつも「豊かさを循環させていますか?」という問いを投げかける。
豊かさの循環というのは、抽象的に聞こえるかもしれないけれど、実態はシンプルだ。自分が受け取った価値を、次の誰かに渡す。そのためにお金を使う。使うことで新しい価値が生まれる。その連鎖の中に自分がいるか、それとも鎖を途中で断ち切っているか。
企業の顧問をしていたとき、経営者と「社員への投資」についてよく話した。優秀な人を採用しても、育成にお金をかけない会社は、いずれ人が去っていく。それは当然の話で、人もお金と同じように、大切にされているかどうかを感じる。稼ぐために使う、という発想を怖がっていると、組織もビジネスも収縮していくしかない。
稼ぐことが得意になりたいなら、使うことの練習をした方がいい。これは逆説的に聞こえるかもしれないけれど、わたしは本気でそう思っている。

テレビに出た後、変わったこと・変わらなかったこと

地上波の番組に出るようになってから、ありがたいことに仕事の規模が変わった。鑑定の依頼が増えて、ライターとしての仕事も増えて、講演の声がかかるようになった。収入の桁が変わるような体験もした。
でもそのときに気づいたのは、収入が増えてもお金の使い方の「癖」は変わらない、ということだった。二十代に植えついた「使うのが怖い」という感覚は、稼げるようになったからといって自動的に消えるものじゃなかった。むしろ金額が大きくなればなるほど、怖さのスケールも一緒に大きくなった。
ある収録の帰り道、スタッフさんたちと食事をした。老舗の和食の店で、わたしは内心どぎまぎしていた。メニューを見て、値段を見て、一瞬迷う。あのとき、まだ自分の中に「これだけ払っていいのか」という問いがあった。結局そのときは奮発して食事を楽しんだけれど、帰りの電車でちょっと落ち込んだ。稼いでいるのに、まだ怖いのか、と。
変わったのは行動で、変わらなかったのは感情の反射だった。感情が変わるには、行動を繰り返す時間が必要だった。何度も「怖いけど使う」を選び続けて、少しずつ、怖さの音量が下がっていった。完全に消えたわけじゃない。でも今は、怖さを感じながらでも動ける。怖さに行動を止める権限を、渡さなくなった。これが変わったことだ。
テレビに出るとか、有名になるとか、そういうことよりも、この内側の変化の方が、よっぽど大きな転機だったと思っている。

「何に使うか」は、「何を信じているか」だ

お金の使い方を変えるということは、信じているものを変えるということだと思っている。
安いものを選ぶのは、「高いものを買うほどの価値が自分にはない」という信念から来ていることがある。投資を躊躇するのは、「自分が成長できるとは思えない」という不信から来ていることがある。豪華な食事を断るのは、「こんな贅沢をする資格はない」という制限から来ていることがある。
これを一つひとつ書き換えていく作業が、お金の使い方を変えることの本質だとわたしは思う。財布の使い方を変えることは、自分への見方を変えることだ。
鑑定の現場で、お金の問題を相談してくる人は多い。収入が増えない、使い過ぎる、貯まらない、豊かになれない気がする。でも話を深めていくと、たいていお金自体の問題じゃない。自分をどう見ているか、未来をどう信じているか、豊かさを受け取っていいと思えているか。そこに行き着く。
タロットのカードを展開して、その人のお金の流れを読むとき、わたしはまずその人の「お金に対する感情」を見る。恐怖があるか、罪悪感があるか、それとも無関心か。感情のパターンが見えると、行動のパターンも見えてくる。お金は感情に正直に動く。怖がっている人のもとには、お金も怖がって近寄ってこない。これは占い師として言うのではなく、15年間たくさんの人を見てきた人間として言っている。
信じていいんですよ、ということを、わたしは毎回の鑑定でどこかに必ず差し込む。自分の価値を信じること。未来に投じることを信じること。豊かさを受け取ることを信じること。これがお金の話の、一番奥にある話だから。

今のわたしが、お金に対して思うこと

最後に、正直に書いておく。
わたしは今も、お金との付き合いが完璧だとは思っていない。迷うし、怖くなることもあるし、「本当にこれでよかったか」と夜中に考えることもある。完全に怖さが消えた、という話をしたいわけじゃない。
変わったのは、お金を「敵」ではなく「言語」だと思えるようになったことだと思う。お金は、わたしが何を選び、何を信じ、どこへ向かおうとしているかを伝えるための言語だ。支払いは、宣言だ。「わたしはこれを大切にしている」という、声に出さない宣言。
アトリエヴァリーのドアを毎朝開けるとき、ここを整えるためにかけてきたお金のことを、たまに思う。あの決断、あの契約書、あの内装の打ち合わせ、あの看板を選んだ午後。全部が積み重なって、今のこの空間になっている。訪れてくれる人が「ここは好きだ」と言ってくれるたびに、あのときの選択が正しかったと、静かに確認する。
お金の使い方を変えた瞬間は、一度じゃなかった。何度もあった。あの夜の申し込みボタン、看板の注文、移動ルートを変えた朝、食事を奮発した夜。それぞれの小さな「変えた瞬間」が積み重なって、今のわたしの財布の中身と、今のわたしの人生が作られている。
覚えていますか。あなたが初めて、怖いけど使ってみた、あの瞬間のことを。

「値段を見ない」と決めた、あの旅のこと

数年前、ひとりで京都に行った。仕事でも取材でもない、純粋に自分のためだけの三日間だった。新幹線のホームに立ったとき、「今回は値段を見ないで選ぶ」と決めた。宿も、食事も、お土産も。気に入ったものを、値札を確認する前に「欲しい」と感じたかどうかだけで判断する。それだけのルールで動いてみようと思った。
最初はぎこちなかった。老舗の和菓子屋でガラスケースを眺めていたとき、手が値段のほうに自動的に動いた。でもそこで止めた。どれが好きか、どれを食べたいか、それだけで選んだ。小さな木箱に入った、ほんの数個の干菓子だった。帰って開けたら、繊細な型押しで花の形が刻まれていて、口に入れた瞬間にすっと溶けた。あの甘さは今も覚えている。
宿は町家を改装した小さな宿で、部屋に坪庭があった。夜、縁側に座って庭を眺めながら一杯だけお酒を飲んだ。虫の声がした。遠くで誰かの笑い声がした。何もしていないのに、満ちていた。この感覚を知っていたら、あの二十代の夜、もっと早く申し込みボタンを押せたのかもしれないとぼんやり思った。
値段を見ないで選ぶと、何が変わるか。選ぶ基準が「安全か危険か」から「好きか嫌いか」に戻る。子どもがおもちゃ屋で目を輝かせるときの感覚に近い。お金の話なのに、感情がのびのびする。あの三日間で使ったお金の合計を後から計算したら、思ったより全然大きな数字じゃなかった。怖がっていたわりに、現実はずっと小さかった。怖さが実際のコストを何倍にも大きく見せていた、ということだ。

人にお金を使うことが、一番難しかった

自分のためのお金より、人にかけるお金の方がずっと難しかった。これは意外と語られない話だと思う。
モノへの支出は、まだわかりやすい。これを買う、という物体がある。でも人への支出は、形がない。誰かの誕生日に奮発する、後輩にごちそうする、尊敬する人へのギフトに予算をかける。こういうお金の使い方に、わたしは長い間、どこかブレーキがかかっていた。「喜んでもらえなかったらどうしよう」とか、「重いと思われないか」とか、そういう余計な計算が入り込んで、結果として中途半端な選択をすることが多かった。
転機になったのは、ある先輩が誕生日にくれたプレゼントだった。仕事仲間で、そこまで頻繁に会うわけじゃない人だった。でも渡されたものは、こちらが「好きそう」だと思ったものを、かなり時間をかけて選んだだろうとわかるものだった。金額より、選んだ時間の重さが伝わってきた。あの瞬間、泣きそうになった。
人へのお金は、選んだ時間ごと渡すものなんだと思った。金額じゃなくて、「この人のことを考えた時間」の物質化だ。だからこそ難しいし、だからこそ渡したときの温度が違う。その体験から、わたしは人へのギフトに以前より丁寧にお金と時間を使うようになった。選ぶのが楽しくなった。これも、お金の使い方が変わった瞬間の一つだ。
鑑定でも、クライアントへの準備にかけるコストを惜しまないようにしている。一人ひとりのチャートを事前に丁寧に読み込んで、当日に向けて自分の状態を整える。この見えないコストを削ると、鑑定の質に必ず出る。それはわたしが誰より知っている。人へのお金と時間をケチった結果は、相手ではなく自分の仕事の質に跳ね返ってくる。

「いつか」のために取っておくお金は、だいたい使われない

「いつか使おう」と思ってとっておいたものが、結局使われないまま終わる、という経験は誰にでもあると思う。お金も、それと同じだ。
お気に入りの食器があって、「普段使いするには惜しい」と思って棚の奥にしまっておく。引っ越しのときに出てきたら、いつの間にかひびが入っていた。高いワインを「特別な日のために」とセラーに眠らせておいたら、飲み頃を過ぎていた。高級な基礎化粧品を「もったいないから少しずつ」と使っていたら、成分が変質していた。こういう話は比喩じゃなく、全部実際に体験したことだ。
「いつか」は来ない。今日の次に来るのは、また今日だ。特別な日のために取っておいたものは、特別な日が来ても「あの食器は惜しい」「このワインはまだ早い」と言い訳を作って、結局また棚に戻す。わたしはこれを何度も繰り返した。そしてある時点で、この「いつか」に支配されるのをやめようと決めた。
良い食器は毎日の食卓に出す。気に入った服は、平日に着る。いい香りのキャンドルは、気分が良い夜に火をつける。お金で買ったものを、お金分だけ生活の中で使い切る。それが豊かさを実感する最短ルートだとわかった。
貯めることと、死蔵することは違う。目的のある貯蓄は力になる。「使うのが惜しい」という理由の死蔵は、豊かさを封印する行為だ。封印された豊かさは、エネルギーを失う。お金もモノも、循環してこそ価値を発揮する。この感覚が体に入ってから、「いつか」という言葉を自分に使うのをやめた。

お金の使い方は、一度では変わらない。それでいい

ここまで読んでくれた人に、正直に言っておきたいことがある。
お金の使い方は、一夜にして変わるものじゃない。一つの体験で劇的に変わるものでもない。わたし自身、ここで書いてきたことを、何年もかけて少しずつ体に馴染ませてきた。申し込みボタンを押した夜があって、アトリエの契約書にサインした日があって、京都で値段を見ないと決めた旅があって、先輩のプレゼントに泣きそうになった午後があって。点と点が繋がって、少しずつ線になっていく。
変わろうとして、また戻って、また変わって、を繰り返す。節約モードに逆戻りする時期もあった。怖くなってお金を握りしめる時期もあった。それが人間だと思っている。変化は直線じゃなくて、らせん状に進む。同じテーマを違う高さから何度も通過しながら、気づいたら前と違う場所にいる。
このエッセイを書きながら、二十代のあの夜のことを何度も思い返した。狭いアパート、画面だけが光っていた机、申し込みページを開いたり閉じたりした時間。あのとき踏み出せたのは、完璧な確信があったからじゃない。怖いまま動いてみようと思えた、ただそれだけだ。
お金の使い方が変わる瞬間は、必ず怖さと一緒に来る。怖さがないところには、変化もない。怖さは危険のサインじゃなくて、ステージが変わる合図だ。その怖さを抱えたまま、それでも手を伸ばした瞬間に、何かが更新される。
あなたにも、きっとそういう瞬間の記憶がある。財布を開けるとき、契約書にサインするとき、申し込みボタンの前で止まったとき。あの瞬間の自分は、怖かったかもしれないけれど、ちゃんと未来を信じようとしていた。

財布を新しくした朝のこと

少し前、財布を買い替えた。前の財布は五年使っていた。縫い目がほつれて、ファスナーが渋くなって、それでも「まだ使える」と持ち続けていた。ある朝、鏡の前で身支度をしながらふと気づいた。服は整えている、靴は手入れしている、でも毎日手にして毎日開く財布だけがくたびれたままだ、と。
その日の帰り道に革小物の店に寄った。決めたのは十分もかからなかった。手に持ったとき、重さがちょうどよかった。革の匂いがよかった。レジに持っていくとき、迷わなかった。新しい財布に中身を移し替えながら、なんだか気持ちが整った感じがした。大げさかもしれないけれど、財布を変えると、お金との関係も少し変わる気がした。
くたびれたものを「まだ使える」と持ち続けることは、倹約じゃなくて、自分への雑さかもしれない。毎日触るもの、毎日使うもの、毎日目に入るものほど、丁寧に選んでいい。そこにかけるお金は、消費じゃなくて、自分の毎日の質への投票だ。財布一つの話のようで、これもやっぱりお金の哲学の話だ。何を大切にするか、その答えは、毎日使うものの中に静かに現れている。

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