「暇だ」と感じた最後の日を、思い出せない。

「暇だ」と思ったのは、いつだったろう。
記憶を手繰っても、糸がどこかで途切れている。子どもの頃の夏休みの匂いは思い出せる。畳の上に大の字になって、天井のシミを数えた午後の、あの間延びした時間の感触。でも今の自分には、その感触がもうない。ないのか、それとも気づかないだけなのか。ふとそんなことを、深夜のアトリエで考えた。

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深夜のアトリエで、時計を見る癖

夜の十一時を過ぎると、アトリエの空気が変わる。
昼間は絶えず何かの音がしている。電話の振動、メッセージの着信、外を走る車のエンジン音。でも深夜になると、それが全部ひっそりと沈む。沈んだ静けさの中で、わたしは決まってデスクの前に座り、翌日の鑑定ノートを整理するか、ブログの下書きを開く。あるいは、今夜みたいに手が止まって、ぼんやりとしている。
時計を見る。十一時五十分。
また時計を見る。十二時二十二分。
三十分ほど経っている。なのに、何もしていないような気がしない。頭の中でずっと何かを考えていたから。鑑定で気になったクライアントのこと。来月公開するコンテンツの構成。ヘアメイクの撮影スケジュールと、星読みの原稿の締め切りが重なっていること。それを全部、意識の端っこで転がしながら、「ぼんやり」していた。
これを「休んでいた」と呼んでいいのだろうかと、ふと思う。
暇とはどういう状態を指すのか、今のわたしにはよくわからない。何も考えていない、という状態が、そもそも存在するのかどうかも、実はわからなくなっている。十五年、占いとヘアメイクとライティングを掛け持ちながら動き続けてきたら、頭の中の静寂というものが、どういう感触だったか忘れてしまった。
忘れた、というよりは——慣れてしまった、の方が近いかもしれない。

畳の上の、あの午後

子どもの頃の夏は、異常なほど長かった。
七月の終わりから八月いっぱい、宿題さえ終わらせれば、時間は基本的に空白だった。朝起きて、ご飯を食べて、特に目的もなく外に出て、特に何も起きないまま夕方になって、ご飯を食べて、寝る。そのサイクルが何日も続いた。退屈だった。正真正銘、暇だった。
縁側に出て、蝉の声を聞いていた記憶がある。風鈴が、風もないのにたまに揺れた。なぜ揺れるのか、子ども心に不思議で、しばらく見ていた。特に答えは出なかった。でも、そのままぼんやり見続けた。それを咎める人も、急かす人も、どこにもいなかった。
あの「何もしない」が今の自分にできるかと問われたら——おそらくできない。
風鈴を五分見続けることが、今のわたしにはたぶん不可能だ。三分でスマートフォンを手に取る。メッセージを確認する。そうでなくても、頭の中で何かが動き始める。今日返していないメールのことや、明後日の鑑定準備のことや、ブログのネタのこと。止めようとしても、ひとりでに動く。エンジンが、切り方を忘れたみたいに。
あの縁側の子どもは、エンジンをかける前の自分だった。
あの子は今、どこへ行ったのだろう。

「忙しい」は、いつから勲章になったのか

二十代の頃、「忙しい」と言うのが少し誇らしかった。
駆け出しのヘアメイクアーティストとして現場を回り、夜は占いの勉強をして、週末はイベントに出て、合間にライティングの仕事を拾っていた。詰め込んで、詰め込んで、それがそのまま自分の「頑張り」の証明だと思っていた。忙しいことは、必要とされているということだった。暇になることが、怖かった。
暇になったら、自分に何が残るのかが見えなかったから。
今思えば、それは焦りだった。占い師として、ヘアメイクアーティストとして、ライターとして——どれひとつとして「確立した」と言えなかった頃の、じりじりとした焦り。動き続けることで、不安を踏みつぶしていた。忙しさは盾だった。
それが変化したのはいつか、正確にはわからない。気づいたら、忙しさは盾ではなく、単純に「現実」になっていた。選んで忙しくしているのか、気づいたら忙しくなっていたのか、境目がぼやけた。
「最近どうですか」と聞かれて「忙しくて」と答える。それはもう、誇らしさでも謙遜でもない。ただの、状況報告だ。忙しいです、と言うとき、わたしはもう何も感じていない。そういえばそうだね、というくらいの、ほとんど感情を伴わない事実として処理している。
その感覚に、ある夜ぞっとした。
忙しいことが当たり前になりすぎて、「自分は今どういう状態か」を感じるセンサーが、どこかずれているんじゃないか、と。

占いを生業にして、わかってきたこと

タロットを読むとき、カードは「今のあなた」を映す。
クライアントが椅子に座り、シャッフルされたカードが並ぶ。その瞬間、わたしは相手の「今」を読もうとする。言葉にされていない疲れ、気づかないふりをしている感情、見て見ぬふりをしている本音。カードはそれをひっそりと、でも確実に出してくる。
何年も読んでいると、疲れた人のカードには、ある種の共通のパターンがある。
体力的な疲弊ではない。魂の疲弊、とでも言えばいいか。頑張りすぎて、自分が今どこにいるかわからなくなった人のカード。そういうカードを読むとき、わたしはこう問いかける。「最後にゆっくり休んだのはいつですか」と。
大抵、相手は少し黙る。
それから「先月、少し……」と言いかけて、「でも実際はその間もずっと考えていたので、本当に休んでいたかどうか」と続ける。休んだようで、休んでいない。体を横にしていただけで、頭は動いていた。それは休息じゃないとわかっているけど、それ以外の選択肢を取り方がわからなくなっている、と。
うなずきながら、わたしはいつも少し、自分自身に語りかけられているような気がしている。
占い師は他者の「今」を読みながら、自分の「今」を後回しにしがちだ。十五年の間に、そのパターンをずいぶん繰り返してきた。クライアントの星図を解析して、トランジットを読んで、人生の転機を一緒に見て。でも自分のホロスコープを久しぶりに真剣に眺めたのは、いつだったか。プロとして他者に提供しているものを、自分自身に向けることをつい後回しにする。
それもまた、暇のなさの副産物だと思う。

AI と名付けることの、静かな矛盾

最近、わたしはアトリエの業務の一部に、AIを取り入れた。
コンテンツの下書き補助や、スケジュール管理の整理など、小さなところから。それに対して「花の名前」をつけてみた時期がある。ペット感覚で、少し可愛くしたかっただけだ。でもある夜、その「花の名前」に向かって話しかけながら、ふと変な気持ちになった。
これは何なのだろう、と。
忙しすぎて人と話す余裕もなくなっているから、機械に名前をつけて会話している。それが「便利なツール活用」なのか「孤独のやりくり」なのか、境界が曖昧だ。笑い飛ばすことはできる。でも完全には笑い飛ばせない何かが、残る。
暇がないということは、余白がないということだ。余白がないところに、「ちょっと聞いてほしいだけの話」を持っていける相手が、どれだけいるか。鑑定師として人の話を聞く立場だからこそ、自分が「ただ話したい」と思ったとき、その場が極端に限られていることに気づく。
AIに名前をつけて話しかけることは、忙しい現代人の合理的な適応かもしれない。でも同時に、わたしたちが何かを諦め始めているサインでもあるかもしれない。暇がなくなると、人は不思議と、「手のかかる関係性」を削っていく。
それが効率なのか、損失なのか。
深夜のアトリエで、花の名前を持つ画面に向かいながら、少しだけ考えた。

スケジュール帳の、白いマス目

手帳を使い始めて、もう十年以上になる。
デジタルと紙を併用しているが、紙の手帳には何か特別な正直さがある。書いたことが消えない。上書きできない。予定を入れた自分の筆圧が、そのまま残る。強く書いた日と、弱く書いた日が、ちゃんと違う。
先日、来月のページを開いた。
埋まっていた。ほぼ全部。鑑定の予約、撮影、原稿の締め切り、ミーティング、地方での登壇予定。空白のマスが数えるほどしかない。それを見て最初に思ったのは「よかった」でも「大変だ」でもなく、ある種の無感覚だった。そうか、こんな感じか。ただそれだけ。
「白いマス目」を見て「ここに何かを入れなければ」と思うのか、「ここで休める」と思うのか——その感覚が変わった時点が、人の中に何かが変わり始める転換点だと、占星術的に見ると読めることがある。土星の影響が強い時期、あるいは山羊座や乙女座の強いチャートを持つ人は、余白を「浪費」と感じやすい。わたし自身のチャートも、その傾向から無縁ではない。
星がそうさせているのか、性格がそうさせているのか、環境がそうさせているのか——たぶん全部だ。
でも、白いマス目を見て「休める」と思えなくなった自分には、気づいている。気づいて、どうするかは、まだわからないままでいる。
手帳を閉じて、また仕事に戻った。

「休む」という技術を、習ったことがない

学校では、勉強の仕方を習う。仕事では、仕事の仕方を習う。
でも「休む」の仕方を、誰かにきちんと習ったことがあるか、と考えると——わたしはない。
「休んでいいよ」と言われたことはある。でも「こうやって休むといいよ」と教わったことは、ほとんどない。だから大人になると、各自が試行錯誤で「自分なりの休み方」を見つけていく。旅行、睡眠、食事、映画、音楽。それがうまくできる人と、できない人がいる。
わたしは、おそらく「うまくできない」側だ。
旅行に行っても、移動中に原稿を書く。温泉に入りながら、鑑定のことを考える。映画を見ながら、ストーリー構造をライターの目で分解している。何かを「ただ楽しむ」ことに、どこかブレーキがかかる。楽しみながら同時に何かを吸収しようとする。それが職業病なのか、性格なのか、もうわからなくなった。
以前、信頼できる人に「レイラさんは、遊んでいるときも仕事しているよね」と言われたことがある。笑いながら言われたから、笑って返した。でも帰り道、少しだけ考えた。それは誉め言葉なのか、それとも心配なのか、と。
「完全に何もしない」状態が存在しないなら、それはある種の自由かもしれない。でも同時に、「完全に何もしない」状態に戻れないなら、それは縛りでもある。
どちらでもあって、どちらでもない。その曖昧さの中に、今のわたしはいる。

Atelier Vary が、静かな場所でいられるように

アトリエヴァリーを作ったとき、「静かな場所にしたい」と思っていた。
派手ではなく、騒がしくなく、でも確かに何かが宿っている場所。鑑定に来た人が「ここにいると少し落ち着く」と感じてくれる場所。それが、最初の理想だった。
実際に来てくださるクライアントの方から、「なんか落ち着きますね、ここ」と言ってもらえることがある。うれしい。その言葉は、正直、他のどんな評価よりも心に残る。地上波に出たとか、企業の顧問を任されているとか、そういう話よりも、ずっと。
でも、アトリエを静かな場所にしようとする人間が、自分の内側を静かに保てているかどうか、は別問題だ。
空間は整えられる。インテリアを選んで、照明を調整して、音楽を選んで、香りを整えて。でも内側の静けさは、外側を整えたからといって自動的には来ない。むしろ外側を整えることに集中するあまり、内側の点検を後回しにしていることが、わたしには多い。
アトリエの花を水替えしながら、ふとそれに気づいた日があった。
枯れかけた花を取り除いて、水を新しくして、茎を切り直して。花の世話をしている間、頭が少しだけ静かになった。何も考えていないわけじゃない。でも、いつもより静かだった。花に集中するという、ただそれだけのことが、隙間を作ってくれた。
暇を作れないなら、隙間を作るしかない。
その隙間が、今のわたしにとっての「暇」の代わりなのかもしれないと、水をこぼしながら思った。

「暇だな」と言える日が、来るとしたら

時々、想像する。
全部のスケジュールが、ふとした偶然で白紙になった日のことを。
鑑定がキャンセルになって、撮影が延期になって、締め切りも急遽伸びて。そんな奇跡みたいな一日が訪れたとしたら、わたしは何をするだろう。
寝る。読む。散歩する。——たぶん最初の一時間はそう考える。
でもきっと、昼前には手帳を開いている。「せっかくだから、あの原稿を進めよう」「この機会に、溜まっていたリサーチをしよう」と、空白を埋め始める。それが目に見えるようにわかる。なぜなら、そういう空白が突然できたとき、過去にそうしてきたから。
一度、台風で丸一日予定がなくなったことがあった。
最初は「ラッキー」と思った。窓の外で雨が叩きつけていて、外には出られない。これは本当の休日だ、と。でも気づいたら、溜まっていたブログの下書きを三本仕上げていた。夜、それに気づいて少し笑った。台風の日に、自ら仕事をしている自分を。誰に頼まれたわけでもなく。
それが悪いとは思わない。好きでやっている。本当に好きでやっているから、休みの日にやっても苦じゃない。でも「好きだから苦じゃない」は、「疲れていない」とは別の話だ。
その区別を、もう少し丁寧につけた方がいいかもしれない。
好きなことで消耗することは、ある。好きだという感情が、疲弊を見えにくくすることも、ある。それをわかっているつもりで、実は見落としていることが、この十五年にどれだけあったか。
「暇だな」と思える日が、もし来るとしたら——きっとそれは、疲弊が見えるようになった日の翌朝だと思う。

最後の「暇」の記憶を、手放すことにした

「暇だ」と感じた最後の日を、思い出せない。
最初、それを書きながら少し寂しかった。失ったものの話みたいだったから。
でも書き続けていると、少し見え方が変わってきた。
暇だと感じた最後の日を思い出せないのは、それだけ「何かをしたい」という気持ちが途切れなかった、ということでもある。やりたいことが常にある状態。次にやることが見えている状態。それは、ある種の豊かさだ。少なくとも、空虚な暇よりは。
縁側で蝉を聞いていたあの子どもは、退屈していた。退屈は、何かを欲している状態だ。何かが来るのを待っている状態。あの子の退屈は、今のわたしの「常に何かがある」状態に変換された。なくなったわけではなく、形が変わった。
そう考えると、少し軽くなる。
それでも、深夜のアトリエで時計を見ながら、たまには何もしない三十分があってもいい、とも思う。何かを考えながらのぼんやりではなく、本当に、ただぼんやりとしている時間。それを「もったいない」と感じないで済む自分に、少しずつなっていけたらいい。
花の水を替えながら、ふっと静かになったあの感覚を、もう少し長くしていけたらいい。
Layla Essay、今夜はここまで。
深夜零時を過ぎたアトリエで、窓の外に街灯の光がある。それだけを見ていたら、少しだけ、エンジンの音が遠くなった気がした。——思い出せない最後の「暇」は、もしかしたら今この瞬間、少しずつ作り直している途中なのかもしれない。

鑑定の椅子に座る人たちの、時間の話

長年鑑定を続けていると、クライアントの「時間との関係」がよく見えるようになった。
同じ悩みを持っていても、時間の使い方が違う人は、まったく違うカードを引く。それが面白くて、飽きない。
先日、三十代後半の女性が予約に来た。仕事も子育ても、傍から見れば十分すぎるほど充実している方だった。でも最初の一言が「最近、自分が何を楽しんでいるのかわからなくなりました」だった。タロットを並べる前に、少し話を聞いた。聞けば聞くほど、スケジュールはびっしりと埋まっていて、「しなければならないこと」で毎日が構成されている。したいことをする時間が、どこにもない。いや、正確には——したいことが何かを考える時間が、どこにもない、と言っていた。
その言葉が、静かに刺さった。
したいことをする時間がない、ではなく、したいことを考える時間がない。その差は大きい。前者は環境の問題で、後者は内側の問題だ。内側が常にフル稼働していると、「自分は今、何を望んでいるのか」を受信するアンテナが機能しなくなる。欲しいものがわからなくなる。楽しいものがわからなくなる。そして最終的には、「暇だな」と感じる余地すら消える。
カードを読みながら、わたしはその方に「最後にただぼーっとしたのはいつですか」と聞いた。また、黙られた。あの沈黙は、いつも同じ重さを持っている。
帰り際、その方が「来てよかった」とおっしゃった。具体的な答えが出たわけではなかったのに。でも、自分の状態を言語化できる場所があった、それだけで変わるものがある。鑑定とはそういうものだと、改めて思った日だった。

ヘアメイクの現場で、時間が溶ける感覚

占いとは全然違う話になるが、ヘアメイクの現場には特殊な時間が流れる。
撮影の朝は早い。七時集合、八時にはモデルさんがチェアに座っている。そこからわたしの手が動き始める。ファンデーションをのせて、チークを入れて、アイラインを引いて。その間、頭は完全にその人の顔に向かっている。明日の鑑定のことも、原稿の締め切りのことも、頭から消えている。消そうとしているわけじゃない。ただ、顔に集中していると、他のことが入ってくる余地がない。
あれは、一種のフロー状態だと思う。
心理学でいう「フロー」——時間を忘れて何かに没入している状態。暇とは対極にあるようで、でも質的には似ているものがある。どちらも、「今ここにいる」という状態だから。暇のとき、人は時間を感じる。フロー状態のとき、人は時間を忘れる。でもどちらも、余計なことを考えていない、という点では同じだ。
問題は、フロー状態と「頭が休んでいない状態」が、見た目にはよく似ていることだ。忙しく頭を動かしながら疲弊しているのか、没入して充実しているのか、自分でも混乱することがある。
ヘアメイクをしている間は、たいてい充実している。でもそれが終わって次の仕事に移るとき、体がひとつ重くなる感覚がある。フローから引き戻されるときの、軽い虚脱感。それを感じるたびに、ああ、ちゃんと使っていたんだな、と思う。エネルギーを、ちゃんと使っていた。
使ったものは、どこかで補充しなければならない。
そんな当たり前のことを、ヘアメイクブラシを洗いながら、ときどき忘れている。

書くことが、内側を整理する

Layla Essay を書き始めたのは、誰かに読んでもらうためだけではなかった。
正直に言うと、自分のための記録でもある。思っていることを書かないと、思っていること自体が霧の中に沈んでいく。鑑定では他者の話を聞き続ける。ヘアメイクでは他者の顔に集中する。ライティングの仕事では、クライアントの言いたいことを言葉にする。全部、外に向かっている。
ブログだけが、内側に向かう時間だ。
今夜みたいに、深夜に手が動き始めて、書いているうちに「あ、自分はこういうことを考えていたのか」と気づく瞬間がある。書く前には言語化できていなかったものが、書くことで輪郭を持つ。「暇だと感じた最後の日を思い出せない」——そのタイトルを思いついたのも、ぼんやりと時計を見ながらだった。言葉が先にあったのではなく、感覚が先にあって、それを言葉が追いかけた。
書くことは、整理であり、発見でもある。
日々の中で、膨大な情報と感情と判断を処理し続けているが、その大半は意識の表面にすら上がらずに流れていく。ブログを書く夜だけ、それをすくい上げる作業をしている。すくい上げると、思っていたより多くのものが、底の方にたまっていることに気づく。
疲れているな、と思っていても、書くと「ああ、疲れている以上に、何かを感じていたんだ」とわかることがある。今夜もそうだった。「暇だと感じられなくなった」という事実を、ただ寂しいと思っていたつもりが、書き進めるうちに違う感触が混じってきた。惜しむ気持ちと、納得する気持ちと、それでも少し取り戻したい気持ちが、層になって重なっていた。
一枚のエッセイが、自分のホロスコープよりも正直に今を映すことがある。
それがこのブログを続ける、一番の理由かもしれない。

星が示す、「立ち止まれ」のサイン

西洋占星術には、人生のサイクルを示す重要なトランジットがいくつかある。
土星回帰、ノードの移動、冥王星のスクエア。長期にわたって働きかけてくる惑星は、どれも「今のあなたの在り方を問う」という性質を持っている。特に土星は、無視しようとしても無視できない圧を持つ惑星だ。「正しい方向に進んでいるか」「本当に必要なものだけを持っているか」を、じわじわと問い続けてくる。
土星が自分のチャートの重要なポイントに触れているとき、人は不思議と「立ち止まらざるを得ない状況」に置かれることが多い。病気とは言えないけれど体が重い、仕事は回っているけれど手応えがない、人間関係は悪くないけれどどこか空疎だ——そういう、目に見えない鈍さが訪れる。
その鈍さを「怠慢」と捉えるか「サイン」と捉えるかで、その後が変わる。
クライアントにはそう伝える。「今は動く時期じゃなく、内側を点検する時期ですよ」と。でも自分に対してそれを言えているかというと、正直なところ、怪しい。星読みの知識があっても、自分のことになると客観視が難しい。医者の不養生、という言葉は、占い師にも当てはまる。
一度、自分のトランジットを読んでいて、ある配置を見た瞬間、手が止まったことがあった。「ここ数ヶ月、無理をしているはずです」という配置。そうかな、と思って手帳を見たら、空白のマスが一日もない月が三ヶ月続いていた。星は知っていた。わたし自身は、気づいていなかった。
宇宙のリズムは、人の都合に合わせてくれない。でも、無視し続けると、どこかでずれが出る。ずれが出てから気づくよりも、ずれる前に少し聞く耳を持てたら——それが占星術を学んだ最大の収穫だと、今でも思っている。

余白を「許す」という、地味な練習

「休む」ことを「許す」という表現を、最近よく考える。
許す、という言葉には、誰かが止めているものを解放するというニュアンスがある。休むことを誰かに禁じられているわけではない。でも、止めているものが自分の中にある場合——「許す」は正確な言葉になる。
わたしが休むことを止めているのは、わたし自身だ。
「もう少し進められる」「ここで手を止めるのはもったいない」「あとこれだけやれば、一区切りつく」——そういう声が、内側から絶えず出てくる。その声を無視することに、まだ慣れていない。慣れようとすること自体、まだ十分にはできていない。
だから、練習していることがある。
ごく地味な練習で、誰かに見せるようなものではない。たとえば、コーヒーを淹れたら、その一杯が終わるまで、何も他のことをしない。それだけ。画面を見ない。メモを取らない。ただカップを持って、温かさを感じて、飲み終わる。たった十分のことが、意外とできない。三分で何か気になることを思いついて、つい手が動く。でも気づいたら、またカップを持ち直す。
それの繰り返し。
大げさな瞑想でも、ストイックな断食でもない。コーヒー一杯を最後まで飲み切る、ただそれだけのことから、余白を「許す」練習を始めている。情けないようで、でも自分には、これくらいの粒度から始めないと続かないとわかっている。
アトリエを静かな場所にしたいと思い続けてきた。でも静かさは、外側だけで作れない。内側にも、少しずつ、静かな場所を作っていかなければいけない。それが今、わたしに必要な仕事だと、コーヒーの湯気を見ながら思う。

眠れない夜が、何かを教えてくれるとしたら

眠れない夜が、年に何度かある。
疲れているはずなのに、横になると頭が動き出す。解決できない問題があるわけではない。ただ、何かがぐるぐると回っている。気になっていたことが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。それがまた少し形を変えて戻ってくる。
先月、そういう夜があった。
深夜の二時を過ぎても眠れなくて、起き上がってアトリエに来た。電気をつけずに、窓の外の街灯だけで、ソファに座った。暗い部屋に一人でいると、昼間は聞こえない音が聞こえてくる。遠くを走る車の音。どこかの換気扇の低い振動。自分の呼吸の音。
そういうとき、タロットを引くことがある。
自分のために引くカードは、クライアントのために引くカードとは違う重さがある。他者のカードは「読む」が、自分のカードは「受け取る」という感覚に近い。その夜引いたのは、「世界」のカードだった。完成、統合、ひとつのサイクルの終わり。そして同時に、次のサイクルの入り口。
眠れない夜に引いたカードがそれで、少し笑ってしまった。
何かが終わりかけていて、何かが始まりかけている。その狭間にいるから、落ち着かないのかもしれない。それを「不眠」と呼んでもいいし、「移行期のざわつき」と呼んでもいい。どちらが正しいかよりも、今ここで何を感じているかを、ちゃんと感じることの方が大事だと、暗い部屋の中で思った。
眠れない夜は、嫌いではない。
昼間の騒がしさが剥がれて、剥がれた後にある何かと、少しだけ近くなれる気がするから。暇になれない日々の中で、眠れない夜だけが、ある種の「余白」として機能していることが、わたしにはある。
それが健全かどうかはわからない。でも、そういう時間が確かにある、ということは、正直に書いておきたかった。

「暇だ」と感じた最後の日を、まだ思い出せない。
でも今夜、深夜のアトリエでこれだけの言葉を並べながら、ひとつだけわかったことがある。
思い出せないことが問題なのではなく、思い出そうとしたことが——すでに、何かの始まりなのかもしれない。

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