「願えば叶う」という言葉が、どうも昔から好きになれなかった。
嫌いというより、信じたことが一度もない。本気で、一度も。
スピリチュアルを生業にしている人間が言うには、ちょっとキケンな告白かもしれない。でもこれは私の正直な話で、誤魔化したって仕方がないから書く。
「願いなさい」と言われ続けた子ども時代
小学生のとき、七夕の短冊に何を書けばいいか分からなくて困っていたことがある。
クラスメートはみんなすらすらと書いていた。「プロ野球選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」「お金持ちになりたい」。願いというものを、彼女たちは迷いなく取り出せるらしかった。
私はというと、そのとき何を書いたか、今でも覚えていない。たぶん「家族が健康でありますように」とか、誰かの受け売りみたいな文字を書いた気がする。自分の願いではなく、願いの「形式」を書いた。そういう子どもだった。
大人たちはよく言う。「夢を持ちなさい」「ちゃんと願えば、神様が聞いてくれる」。でも私には、その「ちゃんと願う」という行為がどういうものなのか、体感としてつかめなかった。願いを書くことは分かる。でも「願う」という動詞の中身が、ずっとよく分からないままだった。
タロットを学び始めたのは20代の前半で、占星術はその少し後。それまでの私はヘアメイクの現場にいて、早朝からスタジオに入って、撮影が終わっても深夜まで次の仕事の準備をしていた。そのサイクルの中で「願い」なんてものを丁寧に育てる時間は、最初からなかった、というのが正確かもしれない。でも本当は時間の問題じゃなくて、「願う」ということ自体に対して、何か根本的に違和感を持っていたんだと思う。
願えば叶う、と誰かが言うたびに、私の中のどこかが静かに首を傾けていた。叶った経験がないわけじゃない。でも、それは「願ったから叶った」のではなく、「動いたから辿り着いた」という感触だった。その違いが、私には決定的に大きかった。
「引き寄せ」ブームの渦中で感じた違和感
一時期、「引き寄せの法則」という言葉がものすごい勢いで流行った。
スピリチュアル業界にいた私も、その波をまともに受けた。セミナーに呼ばれることもあったし、クライアントから「引き寄せってどうすればうまくいきますか?」と聞かれる回数が、急激に増えた時期があった。
ポジティブに考えれば物事が好転する、思考が現実を作る、宇宙にオーダーを出せば届く、という話は、確かに美しい。美しいし、希望がある。私がそれを完全否定したいわけじゃない。ただ、あの時期に私が何度も目にしたのは、「うまく引き寄せられない自分を責める人たち」の姿だった。
ある女性のことを今でも思い出す。30代の後半で、仕事も家庭も何もかもがうまくいかないと言いながら、私のところに来た。彼女は毎朝アファメーションを唱え、ノートにビジョンボードを作り、感謝日記をつけていた。まるで宿題をこなすように、「引き寄せ」を実践していた。それなのに、何も変わらないと泣いていた。
「私の願い方が、どこか間違っているんでしょうか」
その問いが、今も耳に残っている。
私はそのとき、何と答えたか。確か「あなたの願い方は間違っていない。ただ、願いと行動が噛み合っていない」というようなことを言ったと思う。でもそれよりも、もっと根本的なところで私は思っていた。「願うという行為に、呪いをかけられてしまっている」と。
願いを「正しく」実行しなければならない、足りない自分が悪い、うまくいかないのは引き寄せ力が不足しているから、という思考回路。それは願いではなく、自己責任論の変形版にしか見えなかった。そしてその構造の中に「願えば叶う」という言葉は、思いのほか深く根を張っていた。
タロットが教えてくれたこと、願いについてではなく
15年占い師をやってきて、タロットから学んだことはたくさんある。でも「願いの叶え方」を学んだことは、一度もない。タロットはそういうことを教えてくれるツールじゃないから。
タロットが見せてくれるのは、「今あなたがどこにいるか」「何を見ていて何を見ていないか」「どこへ向かっているか」。未来を確定させるためのものでも、願いを叶えるためのお守りでもない。
ただ、何千回と鑑定を重ねる中で、私が繰り返し目撃したパターンがある。
それは「叶った人の願いは、最初から形が違う」ということ。
願いが叶った人の話を聞くと、たいてい共通点がある。彼女たちの言葉は、漠然としていない。「お金持ちになりたい」じゃなくて「月に30万円手取りで、週3日働きたい」とか、「愛される人になりたい」じゃなくて「毎朝、自分で自分に挨拶できるようになりたい」とか。輪郭がある。温度がある。匂いがある、とまで言えそうなくらい、具体的だ。
あるクライアントが、転職をするかどうかで相談に来たとき、彼女が描いていた「理想の働き方」のビジョンがあまりに鮮明で、思わず私が「もうそこへ向かって動いていますか?」と聞いたことがある。彼女は「まだ決めていないです」と言ったけど、カードはとっくに「出発」を示していた。
願いという言葉を使わずに言い換えると、それは「解像度」の問題だ。
「願えば叶う」という言葉が機能しない理由の一つは、「願う」という動詞が、あまりに解像度の低い状態を許容しすぎることだと思っている。願いを「ぼんやりした熱」のままにしておくことを、むしろ推奨してしまう側面がある。ふわっとしたポジティブな気持ちで宇宙にオーダーを出せば届く、という話は、願いを「解像度を上げる作業」から遠ざけてしまう。
「叶えた人」たちは何をしていたか
私が実際に見てきた中で、「望んでいたものを手に入れた」と言える人たちには、共通の行動様式があった。
願うかわりに、観察していた。
「今の自分に何が足りないか」「この状況でどう動けば最短か」「何を手放して、何を取りに行くか」。彼女たちは願いを祈るより、状況を分析して、判断して、動いていた。ポジティブシンキングというより、リアリスティックな戦略家に近かった。
Atelier Varyを立ち上げたとき、私は「上手くいってほしい」と願ったことはなかった。正確には、そんな余裕がなかった。考えていたのは「誰に何を届けるか」「どの媒体で何を発信するか」「どんな価格設定が持続可能か」ということだった。毎日画面の前に座って、数字を見て、クライアントの反応を見て、修正して、また動かした。
それを「夢に向かって進んでいる」と感じたことはなかった。どちらかというと「工事現場で作業している」という感覚だった。
ある時期、地上波のメディアに出る機会が続いたことがある。あれを「引き寄せた」かというと、まったくそんな気がしない。それまでの10年近く、誰にも見えないところで積み上げてきた実績と、縁と、いくつかのタイミングが重なった結果だった。「出たい」と願ったことより、「出られる状態にしておく」ことの方に、ずっと時間を使っていた。
企業顧問の仕事も同じだ。「こういう仕事がしたい」という言語化はあったかもしれない。でもそこに至るまでの道のりは、願いを温めることではなく、信頼を積み上げることだった。信頼は、動くことでしか積み上げられない。
「叶えた人」たちは、願いを持っていないわけじゃない。でも彼女たちの願いは「燃料」ではなく「地図」に近い。願いは向かう方角を示すもので、動かすためのエネルギーは別のところから来ている。
占星術と「運命」の話をするとき
西洋占星術を長年やっていると、「運命」という概念とどう向き合うかを、何度も問われる。
星の配置が生まれた瞬間に決まっているなら、願いなんて意味がないんじゃないか、という話もある。逆に、「星を知れば運命を変えられる」という話もある。どちらも少し正確ではない、というのが私の立場だ。
占星術が見せてくれるのは「傾向」と「タイミング」だと思っている。この人はこういう資質を持っていて、このタイミングで何かが動きやすい、という情報。それは決定ではなく、地形図に近い。山があることは分かる。でもどのルートで登るかは、その人次第。
「今年は転機の年ですね」とクライアントに伝えると、ときどき「じゃあ何もしなくても変わりますか?」と聞かれる。そのたびに私は、少し間を置く。
地形図を持っていても、動かなければ山は越えられない。
ただ、これも「願いを持てば動ける」という話ではない。「状況を正確に知れば、動きが変わる」という話だ。占星術が役に立つのは、願いを強化するためじゃなくて、「今どこにいるか」を知るためだと私は思っている。
それに正直を言うと、願いというものは、自分では制御できないほど変わる。
10年前に「なりたかった自分」に今の私がなれているかというと、どうだろう。なれている部分もあるし、全然違う形になっている部分もある。10年前の私が願っていたものと、今手元にあるものは、かなりズレている。でも今の方が、ずっといい。願いが変わったのか、願いが育ったのか、それとも動いているうちに別の景色が開けたのか。
願い通りにならなかったことの方が、今は宝になっているという実感がある。
「信じる力」を売るビジネスへの、静かな怒り
これは少し強い言葉になるけれど、書いておきたいことがある。
「願えば叶う」という言葉を、商品として売っているものが、この業界には存在する。
「正しい願い方を教えます」「宇宙とつながる方法」「望みを叶えるメソッド」。それ自体を全部否定するつもりはないし、そこから何かを受け取った人もいるだろう。でも私が問題だと思うのは、その商品の構造が「叶わないのはあなたのせい」という自己責任論と、抜き差しならないセットになっていることだ。
高額の講座を受けても変わらなかった、というクライアントから話を聞くたびに、毎回似たような構図が浮かび上がる。「信じることが足りなかった」「波動が低かった」「まだ手放しが足りない」という言葉で、「うまくいかないのはメソッドのせいではなく、実践者のせい」という構造になっている。
これは呪いだ、と私は思う。
スピリチュアルが「信じる力」を強化することで稼ぐ構造を持ったとき、それは時として「疑う力」を奪うことと同義になる。疑うことは不信心ではなく、思考だ。自分の状況を正確に観察する能力だ。それを削ることは、クライアントを助けることにはならない。
私がタロット鑑定で心がけていることの一つは、「あなたの現実を正確に見てほしい」ということだ。カードはあなたの願いを叶えるお守りじゃない。「今ここにある事実」を映す鏡だ。その鏡の前に立つことが怖い人もいる。でも怖くても見てほしいと思っている。
現実を見ることと、希望を持つことは、矛盾しない。むしろ現実を正確に見た上で動く方が、希望には近づく。「信じれば叶う」という言葉は、現実を見ることを後回しにさせてしまう側面があって、そこが私には許せない部分だ。
それでも「願い」を捨てたわけじゃない
ここまで書いてきて、私が「願い」というものを全否定しているように読めたとしたら、少し訂正したい。
私は願いを捨てたわけじゃない。ただ、願いに対する期待の種類が、たぶん多くの人とは違うんだと思う。
願いは「宇宙への注文票」じゃない。でも「方位磁石」にはなる。
何かに向かいたいという感覚、あの方向に何かがある気がするという直感、それは確かに存在するし、私もそれで動いてきた部分がある。ただ、その感覚を「願えば叶う」という言葉で包んだ瞬間に、それは「待つもの」に変質してしまう気がして、そこが嫌なのだ。
願いは、持つだけじゃなくて「使う」ものだと思っている。
方向感覚として使う。判断の基準として使う。何かを選ぶときの、静かな指針として使う。
ある夜、仕事がひどく行き詰まっていた時期のことを思い出す。今から何年前だろう、まだAtelier Varyが今ほどの規模じゃなかった頃。深夜に一人で画面を見つめながら、これで合っているのかと思い続けていた夜があった。
そのとき私は願ったかというと、したかもしれない。「これが正しい方向でありますように」という感覚は、あったかもしれない。でもその翌朝、私がやったのは、願い続けることじゃなくて「何が機能していないか」を紙に書き出すことだった。そこから状況は変わった。変えたのは動きだった。
願いはそのとき、ゴールを教えてくれた。でも動いたのは、私だ。
「叶う」という言葉に潜むもの
「叶う」という言葉についても、少し掘り下げたい。
「叶う」とは何か。願いの通りになることか。望んだ形で実現することか。
私はこの言葉に、少し警戒心を持っている。
「叶う」という状態を前提にすると、叶わなかったものは「失敗」になる。願いが届かなかった、引き寄せができなかった、という文脈で語られる「未達成」は、どこか人を傷つける構造を持っている。
でも実際の人生って、そんな単純な二項対立じゃないよ。
思い描いていた形にはならなかったけれど、全く別の形で「そこに辿り着いた」という経験は、ほとんどの人に一度はあるんじゃないかと思う。あるいは、願っていたものを手に入れてみたら、全然うれしくなかった、という経験も。
私にもある。「こうなりたい」と思っていたものを実際に手に入れてみて、「あ、これじゃなかった」と気づいた瞬間が、何度か。そのたびに少し笑えてくる。あんなに欲しかったのに、と。
「叶う」という言葉は、願いを固定する機能を持っている。一度「こうなりたい」と宣言してしまうと、それが叶わない状態が「不足」に見えてくる。でも本当は、願いは動いていいし、変わっていい。自分が変われば、当然願いも変わる。
叶えることより、更新することの方が、ずっと健康的な在り方だと思っている。
あるクライアントが一度こう言った。「先生、私の願いが変わってしまいました。これって諦めですか?」と。
全然違う、と私は答えた。それは成長だ、と。願いが変わるのは、あなたが変わったということだから。
「叶える」という行為にしがみつくことで、自分の変化を見逃している人を、私は何人も見てきた。
レイラが「信じる」と言えるもの
じゃあ私は何を信じているか、ということを最後に書いておきたい。
「願えば叶う」を信じていない私が、それでも15年間この仕事を続けてきたのは、別のものを信じているからだ。
一つ目は「観察は裏切らない」ということ。
自分の状況を、感情を挟まずにちゃんと見る。何が起きているか、何が足りているか、何が機能していないか。その観察の精度が上がるほど、判断が変わる。判断が変われば、動きが変わる。動きが変われば、結果が変わる。シンプルだけど、これは本当だと思っている。
二つ目は「タイミングは存在する」ということ。
これは占星術的な話でもあるし、純粋な経験則でもある。同じ動きをしても、タイミングによって結果は全く違う。種を撒く季節と、刈り取る季節は違う。焦って動きすぎることも、動かなすぎることも、どちらもタイミングを無視した行動だ。
三つ目は「継続の地味な力」。
10年以上ライターをやり、ヘアメイクをやり、占い師をやってきて、一番確かだと思うのは、「積み上げた事実は崩れない」ということ。技術も、信頼も、実績も、積んだものは消えない。派手な引き寄せより、地道な積み上げの方が、私には圧倒的にリアルだ。
「Layla Essayを読んでいます」と言ってくれる人に、ときどき会う。ブログを始めたのは何年前になるだろう、最初は誰にも読まれていなかった。書くことが正解かも分からないまま、書き続けた。それが今ここにある。願ったからじゃない。書いたから、ある。
「願う」の代わりに、私がしていること
最後にこれだけ書いておく。
「願う」という行為の代わりに、私がやっていることが二つある。
一つは「言語化」。
願いを持つことと、願いを言語化することは、まったく別の作業だ。「なんとなくこうなりたい」という感覚を、具体的な言葉に落とす作業は、思ったより苦しい。でもその苦しさの中に、実は「本当に自分が望んでいるかどうか」が透けて見える。言語化できない願いは、たいてい「そう思うべき願い」か「誰かに見せるための願い」だ。言葉にしたとき、自分の中で何かが微かにでも震えるかどうか。その感覚を、私は信じている。
もう一つは「最初の一手を打つ」こと。
何かをしたいと思ったとき、願うより先に、一番小さい一手を打つ。電話一本でも、メモ書き一枚でも、検索一回でも。動きを始めた瞬間から、現実は変わり始める。これは体感として、本当にそう思う。
ある日の深夜、Atelier Varyの新しいサービスをどうするか考えながら、一人でキッチンに立っていたことがある。コーヒーを淹れて、窓の外の暗い空を見ながら、「これで合ってるのか」を何十回も頭の中で繰り返していた。そのとき私は願わなかった。かわりにノートを開いて、「今日できる最小の一手」を書き出した。翌朝、その一手を打った。それだけだった。
願いは持ってもいい。方角として、指針として、持っていい。でも「願えば動く」は嘘だ。「動けば変わる」の方が、私には真実に近い。
この話を誰かに押しつけたいわけじゃない。「願えば叶う」を信じることで前に進める人がいるなら、その人はそれでいい。でも叶わなくて自分を責めているなら、一度その言葉を棚に上げてみてほしいとは思う。
願いじゃなくて、観察と、判断と、最初の一手。それだけで、ずいぶん景色は変わる。
「願えば叶う」を信じたことがない私が、それでも今ここにいるのだから。
「叶わなかった願い」が、私を作った
正直に言う。私の人生で、強く願ったのに手に入らなかったものがある。
ヘアメイクを始めた頃、どうしても入りたかったチームがあった。業界の中でも一目置かれていた、あるクリエイティブディレクターの現場だ。何度かアシスタントとして末席に加わることはあったけれど、レギュラーとして呼ばれることはなかった。当時の私は、それをひどく悔しいと思っていた。「なぜ自分じゃないのか」を、ずいぶん長い時間をかけて考えた。
あのとき、もし私があのチームに入っていたら。
たぶん今の私はいない。断言できる。
あの現場は美しかったけれど、あのスタイルの中に収まったまま進んでいたら、タロットも占星術も、ライターとしての仕事も、Atelier Varyも、何も生まれなかった。あの「叶わなかった願い」が、私を別のルートへ押し出してくれた。当時はそれが押し出しだとは気づかなかった。ただ弾き出されたという感覚しかなかった。
でも振り返ってみると、弾き出された方向に、今の自分がいる。
これを「宇宙の采配だった」と言うのは簡単だ。でも私はそう言いたくない。あの経験から学んだのは「叶わないことには意味がある」という話ではなく、「叶わなかったとき、どこを見るかで次が変わる」ということだ。
叶わなかった願いを抱えながら、私は「じゃあ今の自分に何ができるか」を考え続けた。悔しさをエネルギーに変えた、と言えばきれいだけど、実際はもっとぐちゃぐちゃした感情の中で、それでも手を動かし続けた、という話だ。手を動かしていたら、別の景色が見えてきた。
叶わない願いを持つことは、失敗じゃない。ただ、そこで立ち止まり続けることが、一番もったいない。
「待っている人」と「動いている人」のタロットは、何が違うか
これは鑑定の話になるけれど、長年やっていると、カードを読む前から「この人は動いているか、待っているか」がうっすら分かるようになってくる。言葉の選び方、相談の立て方、質問の方向性。そこにすでに、その人が今どこにいるかが滲み出ている。
「彼はいつ連絡をくれますか」と聞く人と、「今の私にできることは何ですか」と聞く人では、カードの読み方が変わる。前者は「待つ」ことを前提にしていて、後者は「動く」ことを前提にしている。どちらが良い悪いではなく、その前提がそのまま、次の現実の土台になっていく。
タロットのカードは正直だ。「待っている人」に引かれたカードは、待つことのリスクをちゃんと示す。「動いている人」に引かれたカードは、その動きの方向性をちゃんと示す。カード自体が変わるわけではないけれど、解釈の解像度が、その人の前提によって全く違ってくる。
あるとき、何年越しかで同じクライアントが来たことがあった。最初に会ったときの彼女は、「何か良いことが起きるまで待とうと思っています」という言葉を使っていた。カードには停滞のサインが続いていた。それから数年後、再び来た彼女は、仕事を変え、住む場所を変え、関係性も変えていた。相談の内容が、全く違っていた。「今動いていることをどう加速させるか」を聞きにきていた。同じ人間とは思えないほど、放つエネルギーが変わっていた。
何が彼女を変えたか、と聞いたら、「ある日、待つのをやめただけです」と言った。
その言葉が、今も私の中に残っている。
願うことと待つことは、セットになりやすい。「願っているから、あとは叶うのを待つ」という回路は、思いのほか人の動きを止める。タロットが「静止」を示すとき、それは休息が必要なタイミングであることもあるけれど、「待つことに慣れすぎた状態」であることも多い。その違いは、カードよりも、その人の言葉の中に出る。
それでもこのエッセイを読んでいるあなたへ
ここまで読んでくれた人に、一つだけ聞きたいことがある。
今、あなたが「叶えたい」と思っているものは、言葉にできているか。
ぼんやりとした熱として胸の中にあるのか、それとも輪郭のある言葉として、どこかに書き出されているのか。
言葉にすることが怖い、という人がいる。言葉にしてしまったら、叶わなかったときが怖い、という気持ちも分かる。でも言葉にしない願いは、願いのふりをした「漠然とした不満」になっていくことが多い。何かが欲しいのに、何が欲しいのか分からない。そういう状態の人を、私はたくさん見てきた。
私はこのブログを、誰かに共感してもらうために書いているわけじゃない。「そうですよね、分かります」という返事がほしくて書いているわけでもない。ただ、Layla Essayという場所を15年近く続けてきて、書くことで自分の考えが整理されてきたように、誰かの思考が一行でも動けばいいと思って書いている。
「願えば叶う」を信じている人が、この記事を読んで傷つくことは望んでいない。ただ、その言葉が呪いになっている人に、少し風を入れられたらと思う。
信じなくていい。願わなくていいとは言わないけれど、願いに全部を委ねなくていい。
観察して、言語化して、最初の一手を打つ。それだけで、景色は変わる。
「願えば叶う」を一度も信じてこなかった私が今ここにいるのは、それ以外の方法で、ここまで来たからだ。
あなたにも、願いじゃなく、動きの先に開ける景色があるとしたら。
願いより先に、手が動いた日のこと
このエッセイを書き始めた日の朝、私はコーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。曇った空で、特別なことは何もない朝だった。タイトルだけ先にメモして、しばらく画面を閉じた。
「願えば叶う」を一度も信じたことがない、という一文は、願いでも祈りでもなく、ただの観察の結果として出てきた言葉だ。ずっと自分の中にあったのに、言語化したのは今日が初めてだった。言葉にした瞬間、すとんと腑に落ちた。これが私の本音だ、と。
願いより先に、手が動いていた。気づいたらキーボードを叩いていた。それだけのことが、今日もまた、この場所に一つの文章を生んだ。願ったからじゃない。書いたから、ある。いつだって、そういう順番だった。
