本を買うのをやめられない、小さな罪悪感。

本を買うのを、やめられない。

積んである本、たぶん、今、50冊くらい。

読み終わる前に、次の本を買ってしまう。

これ、やめたほうがいいと、頭では、分かっている。

でも、やめられない。

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書店に、つい寄ってしまう。

打ち合わせの帰り道。買い物ついでの駅ビル。散歩の途中のカフェの隣。

書店が視界に入ると、素通りできない。

用事がなくても、中に入る。

平積みされた新刊を見て、帯を読み、目次を確認し、気になったものを、手に取る。

そうして、気づいたら、2〜3冊、手に持っている。

レジに行く直前に、「積読が50冊あるよ」と、頭の中で誰かが言う。

でも、レジには、行く。

読まない本にも、価値はある、と言いたい。

言い訳するようで、あれですが。

読んでいない本にも、価値はある、と、私は思っています。

本棚に並んでいる「読んでない本」は、私の、興味の地図。

その時期の私が、「この分野に、手を伸ばしたい」と思った記録。

たとえ読まなくても、本棚を眺めることで、その興味の地図が、目に入ってくる。

半年後、1年後、急に読みたくなる本が、その中から、ぽん、と浮かび上がる。

そのとき、慌てて書店に行かなくても、すでに手元にある。

これが、積読の、ひそかな価値。

でも、罪悪感は、ある。

とはいえ、罪悪感はあります。

新しい本を買った夜、本棚の前で、「ごめん」と、心の中で、積読本に謝っている。

待たせていることに、なんとなく、申し訳ない。

「買ったときは、読む気だったんだよ」と、言い訳をしている。

この、小さな罪悪感も、本を買う習慣の、一部なのだと思います。

完全に無自覚で買いまくっていたら、それはただの、浪費。

罪悪感を持ちながら、それでも買ってしまう、という矛盾の中に、本との、ちゃんとした関係が、ある気がする。

本は、物ではない。

服や靴や雑貨を、同じ量、買っているわけではない。

本だけ、こんなに増える。

なぜか、考えてみると。

本は、物ではないからだと、思います。

紙とインクと糊でできているけど、中に入っているのは、誰かの考え、誰かの人生、誰かの研究、誰かの魂。

本を買うというのは、その人の時間を、少し、買う、ということ。

自分の人生だけでは体験しきれないことを、本を通して、追体験する。

これは、他のどんな買い物とも、ちょっと、違う。

だから、本だけは、歯止めが効かない。

本棚は、もう一人の自分。

私の本棚には、哲学、占星術、植物学、料理、詩集、民俗学、心理学、写真集、絵本、翻訳小説、古典、今月出たばかりのエッセイ。

ジャンルは、バラバラ。

でも、眺めると、全部、私の興味の線上に、並んでいる。

本棚は、もう一人の自分、という感じがします。

自分の頭の中を、物理的に、可視化したもの。

引っ越しのとき、いちばん重くて、いちばん手放せないもの。

運ぶのが大変だと、毎回思う。でも、毎回、1冊も減らさず、全部持っていく。

本棚がない家は、私にとって、私ではない場所。

電子書籍も使うけど、紙が多い。

電子書籍、活用しています。

旅行のときや、読み捨てでいい本は、電子で買う。

でも、本当に大事にしたい本は、必ず紙で買います。

理由は、本棚に、物理的に存在してほしいから。

電子書籍は、検索性も持ち運びも便利だけど、「そこにある」という重みが、ない。

ふっと目が合う、ということがない。

紙の本は、何かの拍子に、「そういえば、あの本、読もう」と、呼んでくれる。

この「呼ばれる」体験が、電子書籍には、ない。

罪悪感と、共に、買い続ける。

結論。

これからも、本を、買い続けます。

積読がどれだけ増えても、読み終わっていない本がどれだけあっても、新しい本を、買う。

小さな罪悪感は、抱えたままで、いい。

罪悪感ごと、本棚に並べる。

そのうち、ある日、「今日は、この本を読む日だな」と、積読のどこかから、声がする。

それが、本当のタイミング。

そのタイミングまで、本は、静かに、待っていてくれる。

本好きの人へ、少しだけ。

同じく、本を買うのがやめられない人に、ひとつだけ。

罪悪感を、持ちすぎないでください。

あなたの本棚は、あなたの、もう一つの身体。

そこに並ぶ本は、全部、あなたの人生を、いつかどこかで、支えてくれる。

読まない本も、含めて、あなたです。

今夜も、本屋に寄って、1冊だけ、買って帰ってください。

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