先生が先に、分からなくていい。

「先生なのに、分からないんですか?」

教え始めた頃、何度か言われた言葉。そのたびに、心臓が小さく跳ねた。

「先生なのだから、知っていないといけない」

そう、思い込んでいた。

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「分かったふり」の蓄積。

占いを教え始めた最初の数年、私は、分からないことを「分かったふり」で乗り切っていた。

弟子が難しいカードの組み合わせを質問してくる。本心では「うーん、分からない」と思っている。でも、先生として堂々としていなければ、と思って、もっともらしい解釈を即興で返す。

弟子は、なるほど、と頷く。

でも、私は分かっている。

今、私は、知らないことを、知っているふりで、ごまかした。

その小さなごまかしが、1年、2年、3年と積もっていく。

気づいたら、私は、「本当のことを探す先生」ではなく、「それっぽく答える先生」になっていた。

ある日、正直に言ってみた。

ある日、弟子が見せてきたスプレッドに、本当に分からないカードの並びがあった。

いつもなら、それっぽい答えを即興で返す。

でも、その日は、疲れていたのかもしれない。口からぽろっと、正直な言葉が出た。

「これ、わたしも、分からない。」

弟子は、一瞬、固まった。

その固まった顔を見たとき、私は、さらに続けた。

「一緒に考えてみよう。まずは、1枚目から感じたことを、言葉にしてみて。」

そこから起きたこと。

弟子は、最初戸惑いながら、ぽつりぽつりと、自分の感じたことを口にし始めた。

私は、横で、ただ聞いていた。ときどき、「なるほど」「それは気づかなかった」と相槌を打つくらい。

30分くらい経った頃、弟子が、突然、目を見開いた。

「……あ! 分かった!」

そしてその子は、自分の口で、スプレッド全体を説明してくれた。

私が聞いても、その解釈は、筋が通っていた。私が即興で出したかもしれない「それっぽい答え」より、ずっと、深いところに届いていた。

私が「分からない」と言わなかったら。

この瞬間は、一生、訪れなかった。

先生の「分からない」は、贈り物になる。

その日から、私は、分からないことは、堂々と分からないと言うようになった。

「これは、わたしも初めて見る」
「この組み合わせは、解釈の正解がない」
「正直、今日、ぴんと来ていない」

最初の頃は、怖かった。

先生として権威を失うのではないか。弟子に馬鹿にされるのではないか。「お金を取って教えているのに、分からないってどういうこと」と言われるのではないか。

結果は、まったく逆だった。

弟子は、私が「分からない」と言うと、むしろ信頼する。

「先生でも分からないんだ」という発見は、弟子にとって、勇気になる。私ごときが分からないのは当然なんだ、分からなくていいんだ、と、自分の分からなさを許せるようになる。

先生が「分からない」を使うと、弟子も「分からない」を使えるようになる。

これが、学びの始まり。

分からないから、一緒に歩ける。

全部分かっている先生は、弟子の先を歩いている。

弟子は、先生の背中を追いかけるしかない。追いついても、先生は、まだその先を歩いている。永遠に、追いつけない。

分からないと言える先生は、弟子の隣に立てる。

二人で同じ景色を見て、「こっちかな」「いや、こっちかも」と、一緒に手探りする。弟子は、先生と同じ場所に立っている自分を、感じる。

隣に立った瞬間、弟子は、自分で歩き始める。

先生はその手を引っぱらない。先回りもしない。ただ、隣にいる。

それが、本当の「教える」だと、私は思うようになった。

「分からない」は、準備の言葉。

「分からない」は、投げやりな言葉じゃない。

「これから、分かろうとする」という、始まりの言葉。

分からない、と正直に口にした瞬間、そこからが、本当の学びの時間。それまでは、単なる「情報の受け渡し」でしかない。

情報を渡すだけなら、本でもAIでもできる。

人間の先生にしかできないのは、「分からない」を共有して、「一緒に分かっていく過程」を作ること。

その過程に立ち会えることが、先生の仕事の本質。

教える仕事をする人へ。

もし今、教える立場にいて、「分からないことを、分かったふりで乗り切っている」自覚があるなら。

一度、試してほしい。

次に分からないことを聞かれたとき、正直に、「わたしも分からない」と言ってみる。

最初の数秒は、気まずい。

でも、そのあと、もし続けて「一緒に考えてみようか」と言えたら、その場の温度が、変わる。

教える側と教わる側の境界が、ふっ、と溶ける。

両方が、同じ机の上の謎を、一緒に見始める。

これが、教えるという仕事の、いちばん美しい瞬間だと思う。

先生は、先に分かっていなくていい。

先に、正直でいさえすれば、いい。

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