人に教えて初めて気づく、自分の癖。

誰かに何かを教えようとした瞬間、自分がどれだけ「なんとなく」でやってきたかに気づく。言葉にしようとして、言葉が出てこない。手が勝手に動いていて、その動きを説明できない。そのもどかしさが、実はいちばんの学びだったりする。

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「うまく説明できない」は、理解の不足ではなく、癖の証拠

タロットを本格的に教えはじめたのは、占い師としてのキャリアが10年を過ぎたころのことでした。それまでにも個人的にカードの読み方を共有したことはあったのですが、正式に「教える」という立場に立ったのは比較的遅い方だったと思います。最初のレッスン当日、生徒さんから「愚者のカードはどのタイミングで”始まり”と読んで、どのタイミングで”無謀”と読むんですか」と聞かれた瞬間、私は固まりました。
答えられないわけじゃない。でも、すぐには言語化できない。
15年近くタロットを読んできた中で、その判断は完全に直感と経験の積み重ねに委ねられていて、私自身が「どこで切り替えているか」を意識したことが一度もなかったからです。

その場は「スプレッド全体のトーンと、質問者の感情的な文脈で変わります」と答えたのですが、帰り道、私はずっとそのことを考え続けていました。「スプレッド全体のトーン」って、結局何を見てるんだろう。「感情的な文脈」って、どこから読み取っているんだろう。
自分の中にあるはずの答えを、自分で探し当てられない感覚。
これが「癖」というものの正体だと思っています。無意識に体に染み付いた判断のパターンは、本人には見えにくい。むしろ、他人に説明しようとした瞬間に初めてその輪郭が浮かび上がってくる。

「うまく説明できない」という体験は、自分の能力不足のサインではありません。それはむしろ、あなたの中に何らかの「癖=無意識のパターン」が確実に存在しているサインです。説明できないのは、まだ言語を持たないほど深く体に沁みているから。それは、浅い理解どころか、深すぎる体感の証拠であることがほとんどです。

ヘアメイクの現場で起きた、「見えていない自分」との衝突

占い師としての顔だけでなく、私にはヘアメイクアーティストとしての仕事もあります。撮影現場や舞台、イベントのメイクを長年担当してきました。その現場でも、同じことが何度もありました。
あるとき、アシスタントの子に「アイラインをどこまで引けばいいですか」と聞かれたことがあります。撮影直前の忙しい時間に聞かれたので、私は「目尻から2ミリくらい延ばして、ちょっと跳ね上げて」と答えました。
でも彼女が描いたものを見て、私は思わず「違う、こっちじゃなくて」と自分の手を出してしまった。「2ミリ跳ね上げ」という答えは、一切間違っていなかったのに。

帰り道に考えたのです。私が「2ミリ跳ね上げ」を判断するとき、実際には何を見ているのか、と。目尻の形。まぶたの厚み。骨格による目の角度。その日の照明の強さ。撮影する方向。モデルさんの衣装のトーン。それら全部を総合的に、ほぼ0.5秒で処理して「じゃあここにこの角度で」という判断が出ていた。「2ミリ跳ね上げ」はその結論の一部に過ぎなくて、それを答えとして渡してしまったがために、アシスタントの子は肝心の「判断の根拠」を受け取れなかった。
私は自分の指示の粗さに愕然としました。教えるつもりで、実は何も渡せていなかった。

これはヘアメイクに限らず、どんな分野でも起きることだと思います。長くやってきた人ほど、複数の変数を無意識で処理している。そして教えるときについ「結論」だけを渡してしまう。でも受け取る側に必要なのは結論ではなく、その結論に至るまでの「見ているもの」の一覧表なのです。

「当たり前」がいちばん見えにくい

私がライターとしても仕事をしている関係で、文章を書くことについて相談を受けることがあります。「どうすれば読みやすい文章が書けますか」という問いに、私はかつて「読者の顔を思い浮かべながら書くといいですよ」と答えていました。
今思うと、あれは答えになっていなかった。
「読者の顔を思い浮かべる」という行為が、どういうことなのか。誰のどんな顔を、どんな場面で想像するのか。その顔が浮かんだ状態で、文章のどの部分をどう調整するのか。そこまで言わないと、ただの美しいアドバイスで終わってしまいます。

自分にとって「当たり前」のことは、無意識にすっ飛ばしてしまう。それが「説明が下手」と言われる人の大半の原因だと私は思っています。説明が下手なのではなく、自分の「当たり前」が見えていないだけ。そしてその「当たり前」こそが、相手にいちばん必要な情報だったりする。
誰かに教えようとするたびに、「私がすっ飛ばしている前提は何か」を探す作業が始まります。それはなかなか骨が折れる作業なのですが、これほど自分の癖を浮き彫りにするトレーニングはありません。

たとえばタロット鑑定で言うと、私はカードを並べた瞬間に「このスプレッド、重いな」と感じることがあります。その感覚がどこから来るのかを言葉にするまでに、かなりの時間がかかりました。最終的に気づいたのは、私が「重さ」を感じるとき、大アルカナが偏って出ている・土と水のエレメントが多い・逆位置が集中している、という三つのうち複数が重なっているとき、という法則でした。でもその法則に、15年かかって初めて気づいた。誰かに説明しようとしなければ、一生「なんとなく重く感じる」で済ませていたかもしれません。

自分の口癖は、自分の思考パターンの地図

教えていると、自分の口癖にも気づきます。私がよく言うフレーズのひとつに「でも、全体を見て」というものがあります。タロットの解説中でも、メイクのアドバイス中でも、文章の添削中でも、気づくと同じ言葉が口をついて出てくる。
ある生徒さんに「Laylaさん、それって結局どういうことですか」と聞かれたとき、私は初めて自分がそのフレーズを口癖にしていることに気がつきました。「全体を見て」という言葉の裏にあるのは、私が何かを判断するとき、常に部分ではなくその周囲まで含めた文脈で物事を見ている、という思考パターンです。

それは私の強みでもあるのですが、同時に弱みでもあります。全体を見る癖がある人間は、部分の精度を上げる作業が苦手だったりする。細部の技術的な精緻さよりも、全体の調和を優先してしまう。占いでもメイクでも文章でも、私のアウトプットにはそのパターンが一貫して現れています。
自分の口癖を分解すると、自分の思考の癖の地図が見えてくる。それは自己分析ツールとしては、かなり精度が高い。

占星術で言えば、私は出生ホロスコープを見るとき、真っ先に「アスペクトの全体パターン」を眺める習慣があります。個別の惑星の位置よりも先に、図全体の「形」を見る。これも同じ癖の表れです。T-スクエアやグランドトラインのような「幾何学的パターン」が最初に目に飛び込んでくる。この見方をしない占星術師も当然いますし、どちらが正しいというものでもない。でも私の場合は、誰かに説明しようとして初めて「私はいつもここから入っているんだ」と気づいた。

教えることで生まれる、言語化の圧力

私がこのブログ「Layla Essay」を続けているのも、実はこれと同じ理由が一端にあります。書くということは、自分の思考を言語化することを強制される行為です。頭の中でぼんやりと「そういうもんだ」と感じていることを、一本の文章にしようとした瞬間、どこかに矛盾がある、論理が飛んでいる、根拠が薄い、といった欠陥が浮かび上がってくる。
書くことと教えることは、構造的にとても似ています。どちらも「他者に渡す」という目的のために、自分の内側を外側に引っ張り出す作業です。

地上波の番組に出演させていただいた際、限られた時間の中で占いの話をするという経験をしたことがあります。テレビの文脈で「タロットって何ですか」に答えるのは、鑑定の場で丁寧に伝えるのとまるで違う種類の難しさがありました。30秒で伝えられる「タロットの本質」とは何か。それを問われると、私の中に積み重なってきたものが一気に問われる気がして、収録後にひとりでしばらく呆然としていたのを覚えています。
でもその30秒を作る作業が、自分のタロット観を整理する上でこれ以上ないほど効いた。

誰かに何かを伝えようとするたびに、「私はこれをどう理解しているのか」という問いが内側から突き上げてくる。その圧力こそが、自分を成長させるいちばんの燃料だと、15年やってきて今はそう思っています。企業顧問としてアドバイスをする仕事の中でも同じことがあって、相手のビジネス課題に占星術や心理学の視点を入れようとすると、私の中の「なんとなくそう思ってきたこと」が試されます。「なんとなく」では通用しない場所に自分を置くことが、「なんとなく」を言語化するいちばんの近道なのだと思っています。

上手に教えられない自分を、責めなくていい理由

誰かに教えようとして「うまく伝わらなかった」という経験をすると、多くの人は「自分の説明が下手だから」と落ち込みます。でも私はもう少し違う見方をしていて、「うまく伝わらなかった」ことは、あなたがまだ言語化できていない財産を持っているというサインでもあると思っています。
完全に言語化できていることしか持っていない人は、「伝えられない」という経験をしない。なぜなら、伝えられるものしか持っていないから。

言語化できていないということは、体の中に言葉を超えた何かが積み重なっているということです。それは一朝一夕で手に入るものではなくて、年月をかけて積み上げてきた経験の層です。その層をすぐに言葉にしようとしても、できないことの方が多い。それは当然のことだし、できないことを恥じる必要はまったくない。
大切なのは、「うまく伝わらなかった」という体験を、「自分には何かある、それを今から探す」という入口として使うことだと思っています。

私自身、最初に誰かを教えはじめた頃は、「なぜ私はこれを説明できないのか」と自己嫌悪に落ちることがありました。15年やってきたのに、と。でも今は逆で、「15年やってきたからこそ、すぐには言葉にできない部分がある」と受け止めています。言語化できない部分があるということは、まだ探索する余地があるということでもある。それは豊かさの証拠です。
自分の説明の粗さや言葉の詰まりを、欠点として処理するのをやめた瞬間から、教えることが本当の意味で楽しくなりました。

「なぜそうするのか」を問われると、自分の哲学が見える

タロット講座で生徒さんに一番好きな質問をするとしたら、「なぜそう読んだんですか」です。この問いは残酷なくらい正直に、その人の思考の根を掘り起こします。
「なんとなくそう感じた」「カードがそう言っている気がした」という答えが返ってきたとき、私はその「なんとなく」の中に入っていきます。「感じた」というのは、どこで感じましたか。胸ですか、お腹ですか。そのカードの何を見ましたか。色ですか、人物の表情ですか、数字ですか。
すると少しずつ、その人の「読み方の癖」が現れてくる。

ある生徒さんは、必ずカードの「色」から読みはじめていました。本人は全くそれを意識していなかったのですが、「どこを見ましたか」と繰り返し聞いていくうちに、「あ、私いつも色を先に見てますね」と気づいた。それからその方は、色の象徴体系を意識的に勉強するようになって、読みの精度が一段上がりました。
でも面白いのは、そのことに気づいたのは私ではなく、その方自身だったということです。私はただ「なぜ」を繰り返し問いかけただけ。自分の癖に気づくのは、いつも自分自身です。

「なぜそうするのか」を問われると、その行為の背後にある哲学が見えてきます。哲学というと大げさに聞こえますが、要するに「私はこれをこういうものだと思っている」という信念の断片です。タロットに対する信念、人に対する信念、読みという行為に対する信念。それらは教えることを通じて、少しずつ言葉を得ていく。自分が何者であるかを知るために、教えるという行為ほど鋭いツールはないと感じています。

癖は直すものではなく、理解するもの

ここまで読んで、「じゃあ自分の癖を見つけたら、直さなければならないのか」と思った方がいるかもしれません。私の答えはノーです。少なくとも、最初の段階では。
癖は、直すものではなく、理解するものです。なぜなら、癖の多くは強みと裏表になっているからです。「全体を見る癖」があるなら、それは「細部を見落とす癖」と同じコインの両面です。どちらかを完全に消すことは、もう一方も失うことを意味します。

私がヘアメイクの現場で「全体のバランスを優先しすぎて細部が甘くなる」という癖を認識したとき、それを「治すべき欠点」として扱うのではなく、「細部が甘くなりやすい局面を意識的に補う」という形で対処するようになりました。全体を見る力は殺さず、その力が弱点になる場面だけ意識を向ける。
それができるようになったのは、「自分の癖を知っている」からです。知らなければ、補うこともできない。

占星術で人を見るとき、私はその人のホロスコープの「強い部分」と「それゆえの盲点」をセットで伝えることが多いです。土星が強い人は、責任感という強みを持つ一方で、「完璧にできないならやらない」という癖が現れやすい。火星が突出している人は、行動力という強みがある一方で、後先を考えない突進という癖を持つ。どちらも、消すべきものではない。自分がそういう人間だと知っているかどうかが、分岐点になる。
教えることによって浮かび上がってきた自分の癖も、まず「ああ、自分はそういう人間なんだ」と受け取ることから始めてほしいと思っています。

教えることは、もう一度学び直すこと

Atelier Varyで講座を開いていると、「先生は教えていて楽しいですか」と聞かれることがあります。私の正直な答えは、楽しいというより、怖い、です。ただしそれは嫌な怖さではなくて、深い森に踏み込んでいくときのような、少し緊張を伴う豊かさのような感覚です。
生徒さんからの「なぜ」の問いが、自分の内側の地図にまだ描かれていない部分を照らし出す。それは毎回、小さな発見でもあり、小さな怖さでもあります。

タロットの歴史を教えるとき、メイクの技術を教えるとき、文章を教えるとき、占星術を教えるとき。それぞれの現場で、私は必ず「あ、自分はここをわかっていなかった」という瞬間に遭遇します。経験を重ねるほど、知らなかった自分が増えていく不思議な感覚。それは謙虚さというより、地図が広がるにつれて「未開の土地」が見えるようになるという感じに近い。
教えることは、もう一度最初から学び直すことでもあります。ただし今度は、生徒という鏡を持ちながら。

あるとき、長年一緒に仕事をしてきたスタッフが「Laylaさんって、実は自分のやり方に自信がないんですよね」と言ったことがありました。少し驚いたのですが、考えてみると、当たっている部分がある。私が「なぜそうするのか」を常に問い続けているのは、自信があるからではなくて、本当にそれでいいのかをいつも確かめたいからかもしれない。
その問いを持ち続けることが、15年経っても「教えること=学ぶこと」でいられる理由なのかもしれない、と今は思っています。

人に説明できない自分に出会ったとき

最後に、少し実践的なことを書かせてください。もし今、誰かに何かを教えようとして「うまく説明できない」と感じているなら、焦らなくていいです。その詰まりは、あなたの中に言葉になっていない何かがある証拠だから。
やってほしいのは、その詰まった場所を記録することです。「こういう質問をされて、すぐに答えられなかった」という事実を、そのままメモしておく。答えを出そうとしなくていいです。まず、「ここが私の地図の空白地帯だ」と記録するだけでいい。

私はこの習慣を、アトリエの小さなノートに長年続けています。「今日、説明できなかったこと」という欄を作って、鑑定後やレッスン後に書き留める。それを後から見返すと、同じ場所で何度も詰まっていることに気づきます。繰り返し詰まっている場所こそ、自分の「理解が言語化に追いついていない部分」です。
そしてそこが、自分の成長のいちばんの余白です。

説明しようとするたびに浮かび上がってくる自分の癖。それはある日突然、過去の自分が気づかないでいた「宝の地図」のように見えてきます。誰かに何かを渡そうとするたびに、自分が持っていたものの形がはっきりしていく。
誰かを教えるということは、その意味で、自分を知るための最も誠実な方法のひとつかもしれません。

あなたが「うまく教えられない」と感じているとき、本当に足りていないのは、説明の技術だけではないかもしれない。

「伝わった」瞬間に見える、自分が本当に大切にしているもの

教えていて「あ、伝わった」と感じる瞬間があります。生徒さんの目の焦点がすっと定まる瞬間、あるいは「……あ」という短い声が出る瞬間。あの感覚は、長くこの仕事をしていても毎回新鮮に嬉しい。でも最近気づいたのは、その瞬間を噛み締めながら「私は今、何を使って伝えたのか」を追いかけると、自分がいちばん大切にしていることが見えてくる、ということです。

タロット講座でのことです。「月」のカードの意味をどうしても腑に落とせないという生徒さんがいました。教科書的には「不安、幻想、潜在意識」と書いてある。それはわかる。でも鑑定の場でどう使うのかがわからない、と。私はそのとき、説明の言葉をいったん全部手放して、こんなことを言いました。「夜中の3時に目が覚めて、天井を見つめながら根拠のない不安に飲まれたことはありますか。昼間には何でもなかったことが、その時間だけ巨大に見える、あの感じです」と。
生徒さんは「あ、あります」と言って、そこからカードの話がするすると入っていきました。

伝わったのは、情報ではなくて体感でした。私は無意識に、概念を「生活の中の一場面」に変換して渡していた。それが私の「伝え方の癖」のひとつだったと、その夜に気づきました。抽象をそのまま渡すのではなく、必ず具体の皮膚感覚に落とし込んでから渡す。それは私が占いを学んできた過程で、「生きた言葉でないと人には届かない」という信念を無意識に育ててきた結果だと思います。
「伝わった瞬間に何を使ったか」を振り返ることは、「自分がいちばん信じていること」を確認する作業でもあるのです。

これはメイクの現場でも同じです。撮影後に若いスタッフが「今日のメイク、すごく良かったです。なんであんな風になったんですか」と聞いてくれたとき、私は「光の当たり方を意識した」と答えました。技術的な話ではなくて、「このモデルさんが、この光の下でいちばん美しく見える瞬間を想像してから、そこに向かって組み立てた」という話をしました。スタッフの子は「あ、ゴールから逆算するんですね」と言った。私はその言語化に、むしろ教わった気がしました。私のやっていることを、その子が私よりきれいな言葉にしてくれた。

生徒が先生を育てる、という逆説

教えるという行為には、もうひとつの逆説があります。それは、生徒が先生を育てる、ということです。
私がこれほど自分の癖に自覚的になれたのは、率直に言えば、私の生徒さんたちのおかげです。「なぜですか」と問い続けてくれた人たち、「そのやり方だと私にはうまくいきません」と正直に言ってくれた人たち、「Laylaさんの説明はわかるんですけど、もう少しだけ手前から教えてもらえますか」と勇気を出して言ってくれた人たち。
その一言一言が、私の地図の空白を教えてくれました。

特に印象に残っているのは、占星術の初心者講座で「サインとハウスって何が違うんですか、結局」と聞いてきた方のことです。私はその瞬間、「確かに、これを一言で言える人間はどれだけいるだろう」と思いました。サインは「どのように」、ハウスは「どの領域で」、という説明は正確だけれど、それが腑に落ちるかどうかは別の話です。私はしばらく考えて、「サインは性格で、ハウスは舞台です。同じ俳優が、劇場で演じるのか、路地裏で演じるのかの違い、と思ってもらえますか」と言いました。
その方は「あ、そういうことか」と言って、そこから先は別人のように質問が深くなりました。

でもその比喩は、質問を受けるまで私の頭の中には存在しなかった。生徒さんの「わからない」が、私の「説明できる言葉」を生み出してくれた。誰かのつまずきが、私のアーカイブを豊かにしてくれています。
教えるという関係は、情報が一方向に流れるものではなくて、双方向の発酵のようなものだと今は思っています。先生が素材を渡して、生徒がそれを自分の中で発酵させて、その発酵の過程で先生の素材もまた変化していく。教えることで先生も変わっていく、という構造が、この仕事の醍醐味のひとつだと感じています。

自分の癖を知ることは、自分の輪郭を知ること

話を少し引いたところから眺めてみます。
「自分の癖を知る」ということは、自分という人間の輪郭を知ることでもあります。癖とは、選択の積み重ねです。意識していなくても、繰り返し同じ方向を選んできた結果が、癖として体に刻まれていく。つまり癖は、その人がこれまでの人生でどんなことを大切にし、どんな方向を向いて歩いてきたかの、無意識の記録です。

私が「全体を見る」という癖を持つようになったのは、おそらく10代の後半から意識的にものを見る訓練をしてきたからだと思っています。当時、アートや映画に強く惹かれていた私は、ひとつの作品を「部分ではなく全体として体験する」ことの豊かさを、繰り返し感じてきました。どのアングルから見るか、どの光の下に置くか、周囲に何を配置するか。そういった「文脈」が作品の意味を大きく変えることを、10代の感受性で叩き込まれた。
その体験が、15年後の占いのやり方に、ヘアメイクのやり方に、文章のやり方に、そのまま流れ込んでいます。

誰かに教えることで浮かび上がってきた癖を、さかのぼって「なぜこの癖がついたのか」を考えると、そこには必ず自分の個人史があります。どんな経験が、どんな選択を繰り返させてきたか。それを知ることは、自分がどんな人間として今ここに立っているかを知ることです。
自己理解と言うと、内省や瞑想のようなものを想像するかもしれませんが、私にとっていちばん有効だったのは、誰かに教えようとする現場でした。静かな場所で自分を見つめるより、誰かの「なぜ」に答えようともがく現場の方が、自分の実像がずっとくっきりと見えた。

アトリエヴァリーのロゴには、花のモチーフが入っています。あれを見るたびに、私は「咲いている花は、自分の形を見ることができない」という事実を思い出します。花は、他者に見られることで初めてその美しさが完成する。自分の癖も、誰かに教えようとして初めて、その形がはっきりとこちらに向かってくる。
教えるという行為は、あなた自身の花の形を、初めて正面から見せてくれる鏡です。その鏡を持ってくれる人と出会えたなら、それはとても贅沢なことだと私は思っています。

あなたが誰かに何かを伝えようとして言葉に詰まったとき、それはあなたの中に、まだ名前のついていない何かが息をしている、ということかもしれない。

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