サビアンシンボルを知って、度数の世界に溺れかけた話。

サビアンシンボルを初めて知ったとき、私は文字通り「落ちた」。沼というより崖だった。足元が消えた感覚で、気がついたら深夜3時にノートを5冊並べて、360個の度数をひたすら書き写していた。あれは確か、占いを本格的に学び始めて3年目の冬のことだ。

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最初の出会いは、古本屋の片隅だった

大阪の天神橋筋の近く、間口が狭くて天井まで本が詰まっているような古本屋がある。今もあるかどうか知らないけれど、当時の私はよくそこで時間を潰していた。占い本のコーナーはだいたい奥の奥、棚の下段で埃をかぶっているものが多かった。
その日も何気なく背表紙を追いかけていたら、見慣れない言葉が目に飛び込んできた。「サビアン」。ルビが振ってある。「サビアン」。
何だろうと思って引き抜いたら、昭和に翻訳されたと思しき古い洋書の和訳で、ページが焼けて茶色くなっていた。定価シールが剥がれかけていて、確か300円だった。300円。今思えばあの300円が、私の占い人生に一本の深い亀裂を入れたと言っても過言ではない。
当時の私はホロスコープの読み方はそれなりに習得していたし、トランジットもソーラーアークも、ある程度は扱えていた。でも惑星と星座と角度の組み合わせで「読む」ことに、どこかもどかしさを覚えていた時期でもある。もっと細かく見たい。この1度ずれるだけで何かが変わる感覚、あれは気のせいなのか。そういう問いがくすぶっていた。
サビアンシンボルは、その問いに「ちゃんとある」と答えてくれた最初のものだった。360の度数それぞれに、詩のような、絵のような、意味を持つ象徴のことば。牡羊座1度は「嵐の後の力強い経験」、蠍座15度は「角の生えたX線技師」。わけがわからないのに、なぜか刺さる。刺さるというより、ひっかかる。爪が引っかかる感じで取れなくなる。
古本屋で30分立ち読みして、即レジに持っていった。

360個の象徴を、全部書き写した夜

買って帰ったその夜から、私は完全にそちら側に行った。
まず自分のホロスコープを開いて、すべての天体の度数をサビアンシンボルに変換した。太陽はどの度数か。月は。アセンダントは。そしてそれぞれの象徴を読む。読む。また読む。
「これ、私だ」という感覚が何度も来る。いや正確には「これが私を説明している」というより「これは私の知っている何かだ」という、もっと原始的な引力のようなもの。
面白いのは、象徴が具体的すぎることだ。「海辺の窓辺でキャンドルを灯す修道女」とか「メッセージを持って飛んでいく鳥」とか。抽象論じゃない。場面がある。色がある。においすらある気がする。
私はノートを広げて、12星座×30度=360個のサビアンシンボルを、一個ずつ手書きで写し始めた。印刷しようと思えばできたけど、手で書くことで体に入る感じがしたかったのだと思う。今思えば少し怖い子だけど、当時は至って真剣だった。
深夜2時を過ぎたあたりで、蟹座の度数を書いているとき、ふと涙が出た。理由はわからない。ただ蟹座17度の象徴を読んで、何か胸の奥をつかまれた。書きながら泣いていた。変な話だけど、本当のことだから書く。
360個を全部書き終えたのは朝4時過ぎだった。窓の外が少し白み始めていて、使ったボールペンのインクが切れていた。手首が痛かった。でも妙に清々しかった。何かを手に入れた気がして、でも同時に、何かに取り込まれた予感もあった。

度数が「見える」ようになってきた、と思い込んだ時期

そこから数ヶ月、私はサビアンシンボルにどっぷりだった。
知人のホロスコープを見るときも、まず度数を引く。相談者の太陽度数を確認して、その象徴に何か意味を探す。天体同士のアスペクトより先に度数が目に飛び込んでくる。そういう状態になっていた。
ある日、当時お世話になっていた先輩占い師の鑑定を見学させてもらう機会があった。その先輩は伝統的な西洋占星術を長年やっている方で、度数よりも惑星の品位や支配星の連鎖を重視していた。
見学中に私は「この人の月、蟹座23度ですね、象徴がすごく出てますよ」と口を挟んでしまった。先輩は穏やかに「そうね」と言ったけれど、その後でこう言った。「度数はね、補助線なの。地図でいえば等高線みたいなもの。等高線だけ見て山を登る人はいないでしょ」。
刺さった。刺さりながら、でも当時の私は半分納得して半分反論したかった。等高線だって重要じゃないか。等高線がなければ山の険しさがわからない。そう思っていた。
問題は、私がその時期「サビアンで説明できないものは気のせいにする」という癖がついていたことだ。象徴が腑に落ちたら「やっぱり」と言い、腑に落ちなかったら「今は読めていないだけ」と言う。これは占いとして正直ではない。ある種の確証バイアスの沼に、私は片足以上つかっていた。

サビアンシンボルの「出所」に気づいた日

溺れかけていた私を引き戻したのは、皮肉なことにサビアン自身への深掘りだった。
サビアンシンボルの成り立ちをちゃんと調べると、これがかなり面白い話になる。1925年、占星術師マーク・エドモンド・ジョーンズとクレア・エルウィン・ビーチャーという透視能力者が、公園のベンチに一日座って、360枚のカードに次々とインプレッションを書き付けていったとされている。
透視。インプレッション。つまり、チャネリングに近い形で受け取られたビジョンが元になっている。
これを知ったとき、私の中で何かが少し冷えた。冷めたわけじゃない。ただ「ああ、これは占星術の技法とは少し違う層にあるんだ」と理解した。惑星の運行や星座の象徴体系は、何千年もかけて積み上げられた観察と解釈の集積だ。でもサビアンシンボルは、一日で降ろされたもの。それが良いとか悪いとかじゃなくて、性質が違う。
さらに調べると、ルディア・ヒルという占星術師が後年それを整理・改訂していて、今広く使われているシンボルの言葉はルディアのバージョンだということもわかった。
ジョーンズ版とルディア版では象徴の言葉がかなり違うものもある。どっちが「正しい」のか。正しいという概念がそもそも当てはまるのか。
「これが私だ」と感じていたあの感覚は何だったのか。象徴がそう見えるように私が読んでいただけではないか。そういう問いが湧いてきた。占いを学ぶ人間にとって、これは必要な問いだと思う。でも当時の私にはかなりきつかった。

「使える」と「溺れる」の境界線

占いには「使える」段階と「溺れる」段階がある。私はこれをサビアンシンボルで体験したけれど、タロットでも四柱推命でも同じことは起きると思う。
「使える」段階というのは、道具として手の内に収まっている状態だ。必要なときに取り出して、状況に応じて使って、また戻す。ホロスコープという全体像の中の補助線として度数を読む。象徴が腑に落ちたら参考にして、腑に落ちなければ一旦置く。そういう距離感。
「溺れる」段階は、道具に使われている状態だ。すべてをサビアンで説明しようとする。象徴が刺さった瞬間の感動を再体験したくて、どんどん深みにはまる。鑑定より先に「この度数、面白い」という自分の興奮が来てしまう。
私が溺れていたときの典型的な行動が一つある。知人が「転職しようか迷っている」と相談してきたとき、私はその人の太陽度数のサビアンシンボルを調べることに5分以上使ってしまった。実際には、その人が何に迷っているのか、どんな職場環境が合うのか、経済的な事情はどうか、そういうことを聞くべき5分だった。
象徴を調べた後で「蠍座8度は『暗闇の中での深海魚』……これ、あなたの変容の時期だと思う」と言った。相手はポカンとしていた。当然だ。私は自分の興奮を相手に押し付けていた。
そのときの相手の顔を今でも覚えている。ポカンとした後に、苦笑いで「そうなんだ」と言ってくれた。優しい人だったから。でもあの顔は、「占い師が自分語りしている」という顔だった。15年やってきた今ならはっきりわかる。

それでも、サビアンが好きな理由

溺れた話を長々と書いてきたけど、私はサビアンシンボルが嫌いになったわけじゃない。むしろ今でも好きだ。道具として使うようになってから、もっと好きになったとさえ言える。
サビアンシンボルの一番の魅力は「言葉にならなかったものを言葉にしてくれる可能性」だと思っている。
占星術で惑星と星座とアスペクトを読んでいると、どうしても論理言語になりやすい。「土星が12室で蠍座にあるので、深層心理的なプレッシャーを受けやすく、孤独な場所での内省が……」。正確かもしれないけれど、これは説明だ。
でも「灯台の光が岸に届く」という象徴は、説明じゃなくてイメージだ。その人の内側にある何かに直接触れる可能性がある。論理じゃなく直感に訴える。
鑑定の中でサビアンを使うのは、相手が「そういえば……」と話し始めるときが多い。象徴を伝えた瞬間に何かがほぐれて、言葉が出てくる。あ、それだ、という顔をする。
先日、長年のクライアントさんの更新鑑定をしていたとき、その方の月度数の象徴を読んだら「子どもの頃に住んでいた家の台所の匂いがした」と言った。私は何も台所の話をしていない。ただ象徴の言葉を伝えただけなのに。
それが面白いんだよなあ、と思う。論理で組み立てた解釈が「そうですね」で終わるとき、象徴は記憶の扉を開けることがある。そのためにサビアンがある、と今は思っている。補助線として使う先輩の言葉が、今になってようやく肚に落ちている。

度数と向き合う、もう一つの視点

サビアンシンボルを離れて、「度数」そのものの話も少ししておきたい。
西洋占星術において度数というのは、サビアン以外にも様々な読み方がある。アラビックパーツ、デカン、ターム(バウンド)、クリティカルディグリー。惑星が特定の度数にあるとき、その影響が増幅したり変質したりするという考え方は、古典占星術から連綿と続いている。
私がサビアンにはまる前、こうした伝統的な度数の概念はあまり深く掘っていなかった。ホラリーを学ぶ過程でタームの重要性を知って、「ああ、度数にはサビアン以外のアプローチもある」と気づいたのは、溺れた後の話だ。
クリティカルディグリー、いわゆるアナレータの度数なんかは、実際の鑑定でしばしば「確かに」と思わせる場面がある。0度と29度の持つ、それぞれの意味の違い。0度の「始まり・純粋さ・まだ色のついていない状態」と、29度の「集大成・過積載・手放す前の最後の局面」。これは象徴より論理で説明しやすいけれど、ちゃんと体感が伴う。
あるとき、アセンダントが29度に近い方の鑑定をしていて、「何かをずっと手放せずにいる感じ、ありませんか」と聞いたら、その方が30秒くらい黙ってから「ずっとそうです、ずっと」と言った。声が震えていた。
度数の世界には、まだ私が読み切れていない層がたくさんあると思う。だからこそ面白い。だからこそ溺れる。でも溺れた経験があるから、今は泳ぎながら潜れる。それが15年の意味だと思っている。

「象徴に溺れる」という占い師の職業病

占い師という仕事をしていると、象徴や記号の世界に引き込まれやすい体質になる。これは職業病だと思う。
タロットのカードを見れば象徴を読む。街で看板を見れば言葉の意味を深読みする。夢を見れば「これはどの惑星の影響か」と考える。全部がサインに見えてくる病気、みたいな状態になる時期が、ほぼ全員に来ると思う。
サビアンシンボルはその「全部がサインに見える病」と非常に相性がいい。360の象徴があって、どれかは必ず「刺さる」ように見える。刺さるから、また引く。また刺さる。快感の連鎖が起きやすい構造になっている。
私が溺れた時期に気づかなかったのは、この「刺さる快感」が自分のためのものになっていたということだ。鑑定は相手のためにするものなのに、私は象徴を読む快感を楽しんでいた。相手を通してサビアンを読んでいた。主語が逆だった。
これに気づいたのは、鑑定後に相談者からいただいたフィードバックがきっかけだった。「サビアンの話はよくわからなかったけど、最後の方に言ってくれた『今は結果より準備の時間』という言葉が刺さりました」。
その「今は結果より準備の時間」は、サビアンとは関係なく私が直感で言った言葉だった。でも相手に届いたのはそっちだった。
象徴は道具であって、目的ではない。相手に届くかどうかが基準であって、自分が面白いかどうかが基準ではない。この当たり前のことを、私はサビアンを通して学んだ。遠回りだったけど、遠回りじゃなかったら学べなかった。

今の私とサビアンシンボル

15年のキャリアの中で、サビアンシンボルを使う頻度は落ちた。でも使い方は深くなった、と思っている。
今は、鑑定の中でサビアンを引くのは全体の読みが一通り終わった後だ。惑星の配置を読んで、アスペクトを追って、ハウスのテーマを整理して、相手の状況と照らし合わせてから、最後に「この度数の象徴、聞いてみますか」と差し出す感じ。
デザートみたいなもんだ。コース料理の最後に出てくるもの。それだけ食べて栄養を取ろうとしたら無理があるけど、最後に甘いものがあると食事全体が豊かになる。そのくらいの位置づけ。
Atelier Varyでの鑑定でも、タロットと西洋占星術を組み合わせた読みをするとき、タロットカードの象徴とサビアンシンボルが偶然リンクする瞬間がある。月が乙女座の特定の度数にあって、その象徴がタロットの引いたカードの絵と不思議なほど重なる、みたいなこと。これが起きると、自分でも少しゾクッとする。
そういう瞬間を相手に伝えると、「それって何か意味があるんですか」と聞かれる。正直に言えば、意味があるかどうかはわからない。でも意味があるように感じるのは本当だし、その感じを共有することで何かが動くなら、それは無意味じゃない。
象徴というのは、そういうものだと思っている。証明できないけど体感がある。論理じゃないけど嘘じゃない。その曖昧な場所に、サビアンシンボルは住んでいる。
古本屋で300円で買ったあの本は、引っ越しを3回しても手放せずに今も本棚にある。ページはもっと黄ばんで、背表紙が割れかけている。たまに開くと、深夜にボールペンが切れるまで書き写していた自分のことを思い出す。バカだなあ、と思う。でも愛しいとも思う。あの夜があったから今がある、という話は、占いに限らずどこにでも転がっている。

溺れた経験が、読みを深くする

最後にまとめっぽいことを書こうとして、でもまとめたくないなと思い直している。
サビアンシンボルに溺れかけた話を書いてきたけど、これは「サビアンには気をつけよう」という話じゃない。むしろ逆だ。
溺れない人は、たぶん深くも潜れない。象徴の世界に足首まで浸かってビビって引き返す人は、その象徴が持つ本当の引力を知らない。溺れかけるくらい引き込まれた経験があるから、その象徴の何が危うくて何が本物かを、自分の体感で知ることができる。
私が占星術師として15年やってこれた理由の一つは、溺れた経験を持っていることだと思う。タロットでも溺れた。四柱推命でも少し溺れた。数秘でも溺れかけた。全部に溺れて、泳ぎ方を覚えた。
地上波のテレビに出させてもらうときも、企業顧問の仕事をするときも、根拠として使えるのは理論書の内容だけじゃない。「あの深夜に書き写した360個の象徴」みたいな、理屈にならない体験の蓄積だ。それが迫力になる、と信じている。
占いを学んでいる人が、もし今サビアンシンボルに溺れかけているなら、私は「上がってこい」とは言わない。もう少し潜ってみたら、と言う。ただ、潜りながら「自分は今溺れている」という意識だけは忘れないこと。それだけ持っていれば、溺れることは経験になる。
象徴は読み手を映す鏡でもある。鏡に映った自分を見てハッとしたとき、それがたぶん、象徴が仕事をした瞬間だ。

サビアンを「教える側」になったとき、初めてわかったこと

溺れた経験が蓄積されてしばらく経った頃、私はサビアンシンボルについてレクチャーをする機会を得た。当時、占いを学び始めた人たちが集まる勉強会のようなものがあって、テーマを持ち回りで発表するスタイルだった。私が選んだのはもちろんサビアンシンボル。5分で説明できると思っていたら、準備に丸3日かかった。
教えようとした瞬間に、自分の理解の甘さが全部露呈する。これは何を学ぶときでも同じだけど、サビアンは特にひどかった。「なぜこの象徴がこの度数に対応しているのか」を説明しようとすると、答えられない。「牡牛座7度がなぜ『古い井戸と若い女性』なのか」と聞かれたら、「そういうものだから」としか言えない。
チャネリングで降ろされた象徴群に「なぜ」を問うこと自体がそもそも無理な話なのだが、教える立場になると誤魔化せない。私はレクチャーの前夜、改めてサビアンシンボルの成り立ちと限界を整理した。「この象徴は直感的に使うものであって、論理的に証明できるものではない」という前提をちゃんと伝えることが、教える側の誠実さだと気づいた。
当日のレクチャーで、参加者の一人が自分の太陽度数の象徴を聞いて「全然ピンとこないんですが」と言った。以前の私なら「今は読めていないだけ」と言っていたと思う。でもそのとき私は「ピンとこないなら使わなくていい。度数の象徴は全員に刺さるわけじゃないし、刺さらないことは何も問題じゃない」と言えた。
その人がほっとした顔をした。「ピンとこない自分がおかしいのかと思ってた」と言った。
ああ、そうか、と思った。象徴に魂を乗っ取られそうになっていた時期の私は、ピンとこない人に「なぜピンとこないのか」を考えさせる圧力をかけていたかもしれない。教える立場になって初めて、自分が溺れていた頃の熱量が周囲にとって少し迷惑だったかもしれないと、遅れて気づいた。

ヘアメイクと占いと、象徴を扱うということ

私はタロット占い師・占星術師である前に、ヘアメイクアーティストでもある。この二つが一見バラバラに見えて、実は深いところで繋がっていると感じている。
ヘアメイクの仕事は、象徴を扱う仕事だ。色は象徴を持つ。形は象徴を持つ。眉の角度一つで「知性」にも「優しさ」にも寄る。ヘアラインの見せ方で「強さ」と「柔らかさ」が切り替わる。これは美容技術の話であると同時に、象徴のコントロールの話でもある。
面白いのは、ヘアメイクの仕事をしていると「象徴は相手のためにある」という感覚が自然に育つことだ。私がどんなに「この色が美しい」と思っても、その人に似合わなければ意味がない。私の好みで相手の顔を塗り替えてはいけない。相手の持っているものを引き出すために、技術と感性を使う。
これが占いに転用されたとき、やっと「象徴は相手のためにある」という感覚が腑に落ちた。サビアンシンボルを私が面白いと思う度数から引いてはいけない。相手のホロスコープに刻まれた度数の象徴を、相手に届く言葉で伝える。それだけだ。
ヘアメイクと占いを両方やっているから気づけたことが、実はもう一つある。どちらの仕事でも、相手の「変容したい」という意志と向き合う場面がある。髪を切る、色を変える、眉を整える。ホロスコープを読む、タロットを引く、サビアンを伝える。どれも「今の自分から次の自分へ」の移行を支える行為だ。
移行の瞬間に象徴が機能する。ヘアスタイルが変わった瞬間に「なんか気持ちが切り替わった」と言う人がいる。サビアンシンボルを聞いた瞬間に「それだ」と言う人がいる。象徴が変容のスイッチになる、そういう使い方が一番誠実だと今は思っている。

度数の沼から這い上がる、実践的な話

同じように度数やサビアンシンボルの沼にはまっている人、または今まさにはまりかけている人に向けて、少し実際的な話を書いておく。
まず、サビアンシンボルは「全部覚えようとしない」方がいい。360個を全部書き写した私が言うのも説得力がないけれど、全部を暗記することに意味はない。必要なときに引いて、相手の前で一緒に眺める、くらいの距離感がちょうどいい。占い師が事前に「この人の度数はこれだから」とガッチリ解釈を固めてから鑑定に臨むと、相手の反応に耳を傾ける余裕がなくなる。
次に、「刺さった」と「正しい」は別物だということ。象徴が刺さるのは、読み手の解釈と象徴の言葉がうまく重なったときだ。これは占い師側の感性の問題でもある。同じ象徴を別の占い師が読めば、違う刺さり方をする。絶対的な読みは存在しない。
三つ目。サビアンを使いたいなら、月の度数か、アセンダントの度数から始めるといい。太陽よりも月やアセンダントの方が、体感的に「これだ」という反応が得られやすいことが多い。なぜかは説明しにくいけど、経験則としてそう感じている。太陽のサビアンは、意識的なアイデンティティの話になりすぎて、かえって「そうですね」で終わることが多い。
そして最後に。もしサビアンシンボルに飽きたとしても、それは成長のサインだ。飽きるということは、象徴の層を一通り体で吸収したということ。飽きた後に他の読み方に戻ってくると、サビアンがあった経験が確実に深みを作っている。私がそうだった。溺れて、上がって、他の技法を磨いて戻ってきたら、サビアンがちゃんと道具になっていた。道具になった瞬間が、本当の意味での習得だと思う。

あの300円の本が、今も本棚にある理由

引っ越しのたびに本を減らしてきた。占い関係だけで数百冊あったものを、今は厳選して数十冊にしている。手放す基準は「もう読み返さないもの」か「この情報はもっといい形で手元にあるもの」だ。
それでもあの300円の古本だけは手放せない。
理由を考えると、たぶん「体験が染み込んでいるから」だと思う。本そのものに情報として価値があるかと言えば、今はもっと詳しいサビアンシンボルの解説書が手に入る。日本語で書かれた読みやすいものもある。あの古本の和訳は正直言って少し読みにくいし、紙も傷んでいる。
でもあの本のページを開くと、大阪の古本屋の埃の匂いが戻ってくる気がする。焼けた紙の色。読みかけで本棚に挟んだ近鉄電車の切符。深夜のボールペン。泣きながら書き写した蟹座の度数。全部がセットになって記憶の中にある。
占いは最終的に、技法じゃなくて体験の総体だと思っている。何を学んだかではなく、学ぶ過程で何を感じ、何に迷い、何に揺さぶられたか。その蓄積が読みの厚みになる。
Atelier Varyで今日も鑑定をして、相談者の言葉を受け取りながら、私の中にある無数の「あのとき」が動いている。サビアンシンボルに溺れかけた夜も、その一つだ。あの深夜がなければ今の私の読みは、もう少し薄かったと思う。
象徴は、使う人の経験を映す。使う人が深ければ深い象徴が立ち上がり、浅ければ表面を撫でるだけで終わる。だとしたら、溺れることを恐れずに深みに入っていった過去の自分を、私は責めることができない。あの夜の自分は、今の私の一部だから。
サビアンシンボルを初めて知ったとき、私は落ちた。でも落ちた先に、地面があった。

それでも、次の沼が待っている

サビアンシンボルを道具として使えるようになった頃、私はアラビックパーツの計算式に興味を持ち始めていた。また深みに引き込まれる予感がした。でも今度は少しだけ笑えた。ああ、また沼だ、と思いながら足を踏み入れる感覚は、初めて溺れたときとはまるで違う。怖くない。むしろ懐かしい。占いの世界は底が見えない海で、潜るたびに知らない層が現れる。それが嫌になったことは、15年で一度もない。溺れる覚悟がある人だけが、深いところの景色を見られる。

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