ある春の午後、鑑定の終わり際に、お客さまがふと笑いながらおっしゃった言葉があります。「レイラさん、これって占いじゃなくてカウンセリングじゃないですか?」と。悪意はまったくなかった。むしろ、温かい驚きを含んだ声でした。でも私はその一言を、その日の夜もずっと反芻していました。なぜなら、それは私が15年間、心の奥底で抱え続けてきた問いと、完全に重なっていたからです。
その言葉が刺さったのは、図星だったから
鑑定はいつも通りに始まっていました。その日のお客さまは30代の女性で、「彼との関係が進展するかどうか見てほしい」というご相談でした。タロットを展開して、星の配置を確認して、私はいつものように語り始めた。でも途中から、会話の流れはすっかり変わっていました。
彼女の話を聞いているうちに、私は気づいていたのです。問題は「彼が振り向くかどうか」ではなく、彼女が自分の感情を言語化したことが一度もないという事実に。「好き」という気持ちを誰かに話すこと自体が、生まれて初めてに近いと、彼女は静かに打ち明けました。窓の外には柔らかな春の光が射し込んでいて、部屋の空気がなんとなくゆっくりになった気がしました。私はカードから目を上げて、彼女の言葉をただ受け取った。
鑑定が終わったとき、彼女は「なんで急にこんなに話してしまったんだろう」と笑いながら、そしてその言葉を続けました。「これって占いじゃなくてカウンセリングですよね」と。
笑って返しましたが、その言葉はずっと耳に残った。なぜ刺さったのか。図星だったからです。いや、正確には「図星かどうかを私自身がまだ決められずにいたから」と言う方が正しい。
占いとカウンセリング、その違いを問われ続けた15年
占い師として活動を始めた最初の数年間、私はこの問いに何度もぶつかりました。お客さまから直接言われることもあれば、同業者から「レイラさんのやり方は占いというより心理相談に近い」と指摘されることもあった。メディアに出るようになってからは「占い師なのに話を聞きすぎ」と言う人もいた。
私はそのたびに少し戸惑いながら、でも明確に反論できなかった。なぜなら、私自身がその境界線を意識的に引いていなかったから。占星術もタロットも、私にとっては最初から「人を読む道具」でした。星の配置もカードの絵柄も、その人の言葉を引き出すための鍵のようなものだと思っていた。だから、鑑定の中で沈黙が生まれることも、泣き出すお客さまがいることも、ごく自然なことのように受け取ってきた。
カウンセリングの資格を持っているわけではありません。心理学を体系的に学んだわけでもない。でも私がやっていることは、星とカードを通じて「その人が自分でも気づいていない何かを言葉にする手伝い」だと、ずっと思ってきた。それが占いなのか、カウンセリングなのか。その問いに対して、私は15年間、正直なところ曖昧に答えてきたのです。
「未来を当てる」という呪縛
占い師という仕事を続けていると、必ず「当たる・当たらない」という評価軸にさらされます。これは避けられないし、ある意味では仕方のないことです。でも私がずっと感じてきた違和感は、「当たる占い」こそが本物だという暗黙の前提にあります。
たとえば、こんなことがありました。以前、ある経営者の方を鑑定したとき、私はホロスコープを見ながら「今年の秋、大きな決断を迫られる局面が来る」とお伝えしました。その方は半信半疑でお帰りになった。そして半年後、再度いらしたときに「あの時の話、全部そのまま起きました」とおっしゃった。それは嬉しいことです。でも私が本当に伝えたかったのは「秋に何かが起きる」という予言ではなく、「その時期に自分の軸を持てているかどうかが、分岐点になる」というメッセージだった。
「当たった」という体験は確かに信頼につながります。でもそれだけを求めてしまうと、占いはただの予言装置になってしまう。私はそれをずっと恐れてきました。未来を「当てる」ことが占い師の仕事の全てだとしたら、私はこの仕事に向いていないかもしれない、と思っていた時期もあります。
でも同時に、「当てることができなければ信頼されない」という現実もある。地上波への出演が増えた時期、プロデューサーから「もっとズバリ系にしてほしい」とオーダーされたことがありました。私はそこで初めて「占い師として求められている自分」と「私が本当にやりたいこと」のズレを、言葉にできる形で自覚しました。
星とカードは「鏡」である、という確信
私がタロットと占星術を使う理由は、シンプルです。それが「人に自分を見せる鏡」として機能するからです。
カードを一枚引いた瞬間、人はそこに何かを見ます。「当たっている」と感じる時、それは外側から正解が与えられたのではなく、内側にあった何かがカードの絵柄を通じて浮かび上がったのです。ホロスコープの図を見ながら「ああ、だから私はあの時あんな行動をしたんだ」と腑に落ちる瞬間も同じ。星が命令したのではなく、星の地図が自分の地図と重なって、自分自身が見えた瞬間です。
これはカウンセリングに似ています。でも、決定的に違うところがある。カウンセリングは基本的に、クライアントが持ち込んだ問題を中心に進みます。でも占いは、その人が「問題だと思っていなかったこと」をも浮かび上がらせることがある。タロットカードが意図せず核心を突くのは、そういう瞬間です。
たとえば、仕事の悩みで来た方が、カードを通じて「実は父親との関係が全部に影響している」と気づいてしまう、ということがあります。私が誘導したわけではない。カードの絵が、その人の中にある記憶や感情を引っ張り出してしまう。これが「鏡」という意味です。
アトリエヴァリーの鑑定空間は、わざわざそういう設計にしています。過剰な演出を排除して、シンプルな空間に整えているのは、「お客さまの声が反響する余白」を作るためです。占い師が喋りすぎると、その鏡に占い師の顔が映ってしまう。私が気をつけているのは常にそこです。
「答えを出す」仕事と「問いを育てる」仕事
占いに来るお客さまの多くは、「答えが欲しい」という気持ちでいらっしゃいます。「彼と結婚できますか」「転職すべきですか」「この仕事は続けるべきですか」。明確なYes/Noを求めている。それは当然です。迷いの中にいるから、占い師のところに来るのですから。
でも私が15年の鑑定を通じて学んだことのひとつは、「答えを出したとき」より「問いが変わったとき」の方が、お客さまの表情が本当に変わるということです。
「転職すべきですか」という問いが、鑑定の途中で「私はそもそも何を大切にしたいんでしょう」に変わる瞬間があります。その瞬間に、空気ごと変わる。私はそれを何百回と目撃してきました。肩がすっと下がって、目の焦点が少し遠くなって、深い息をつく。あの瞬間を、私は「問いが育った瞬間」と呼んでいます。
これはカウンセリング的なアプローチに近いかもしれない。でも私が使っているのは、心理技法ではなく、星とカードという「外側にある象徴」です。カウンセラーはクライアントの言葉を鏡にして返しますが、私はカードや星図という第三者的なものを間に置く。その「間に置くもの」があることで、お客さまが自分の感情や思考と「少し距離を置いて」向き合える。これが占いの持つ固有の機能だと、私は今では確信しています。
答えを出すことが悪いとは思いません。でも、問いが変わらないまま答えだけを受け取っても、同じ問いを翌月また抱えてやってくることになる。私が目指しているのは、「この一回の鑑定で、お客さまの問いが少し深くなること」です。
泣いたお客さまに、私はどう向き合ってきたか
鑑定中にお客さまが泣かれることは、珍しくありません。私のところには、かなり深刻な状況のお客さまもいらっしゃいます。離婚の決断を前にしている方、家族の病を抱えている方、長年キャリアを積んできたものが崩れそうになっている方。タロットのカードをめくった瞬間に涙が出てしまう方もいる。
私はその時、何もしません。ティッシュをそっと置いて、沈黙を保つ。「大丈夫ですよ」も言わないし、話を急いで展開させようともしない。ただ、その涙が落ち着くまで待つ。
あるとき、初めていらしたお客さまが鑑定開始から10分も経たないうちに声を詰まらせました。「星を見ながら話すと、なぜか出てくるんです」とおっしゃって、少し恥ずかしそうにティッシュで目を押さえていた。その方は、普段の日常では「泣けない人」だったそうです。忙しすぎて、悲しむ時間も、立ち止まる場所も持てないでいた。だから占いの場が、そのまま「立ち止まれる場所」になった。
私はこういう経験を重ねるたびに、「占い師」という肩書きへの問いを深めていきました。私は泣いているお客さまのカウンセリングができているわけではない。でも、泣ける場所を提供できている。その機能は確実にある。
カウンセラーの友人に一度この話をしたことがあります。彼女は少し考えてから「それはね、安全な場所に見えているということよ」と言いました。「占い師という存在に来ているということは、星に背中を押してもらいたいということ。責任を一度外に預けることで、自分に向き合える。それはカウンセリングとは別の入口なの」と。その言葉は、私の中で長く響いています。
「依存させない」ということの難しさ
この仕事で最も難しいと感じていることのひとつが、「依存させない」ということです。
占い師を定期的に訪ねるお客さまの中に、「何かあるとすぐ来てしまう」タイプの方がいます。それ自体は悪いことではない。ただ、鑑定を経るたびに「自分で決める力」が育っているか、それとも「先生に聞けばいい」という感覚になっていないか、私は常にそこを見ています。
月に一度、数年にわたって通ってくださっているお客さまに、ある時期から意識的に「今回のテーマ、レイラが答えを出す前に、あなたはどう思いますか?」と聞くようにしました。最初はびっくりされました。「占い師に聞くのに、なぜ私が先に答えるんですか」と苦笑いされた。でも数ヶ月後、その方は「最近、何かある前に自分で考えてから来るようになりました。そしたら鑑定の内容が全然違う質になってきた気がする」とおっしゃいました。
これはカウンセリングのアプローチそのものに近いかもしれない。でも私がやっていることは、セラピーではなく「占いを通じた自己対話の促進」だと思っています。星やカードは「問いかけてくれる存在」として機能する。その問いかけを自分の中で受け取れるようになったとき、お客さまは占い師に依存しなくて済むようになっていく。
それは少し寂しいようでもあります。でも私はそれを目指している。企業顧問として経営者の方々と関わる時も、個人鑑定でも、最終的に「この人が自分で立てるようになること」が、私の仕事のゴールのひとつだと感じています。占いによって依存を深めるのではなく、占いを卒業できるほど自分軸が育つ。それが本当の意味での「役に立った」だと思っているからです。
占いが「当たる」とはどういうことか、改めて考える
話を少し戻して、「当たる」ということについて、私なりの考えを整理しておきたいと思います。
占いが「当たった」という体験には、大きく分けて二種類あります。ひとつは「言われた通りの出来事が起きた」という体験。もうひとつは「言われたことが、自分の中の何かとぴったり合致した」という体験。後者はいわゆる「腑に落ちた」感覚ですが、これを「当たった」と感じる人は非常に多い。
そして私が観察してきた限り、後者の体験の方が、お客さまの行動を変えるきっかけになりやすい。「秋に転機が来ると言われたから、秋まで待つ」というのは前者の使い方。「あなたの本質はこういう動き方をする星を持っている、だから今の停滞はその特性と逆行している」と気づく方が、行動が変わるのです。
以前、タロット講座を担当したとき、受講生の一人が「カードが当たるかどうか不安です」と言いました。私はその時、「カードは当てるものじゃなくて、見せるものです」と答えました。その人が自分の中に持っているものを、カードという鏡で見せる。だから「当たる」かどうかより「何が見えるか」の方が大事だと。
もちろん、これはある種の占い観であって、全員に当てはまるとは思っていません。予言的な占いを求めている人がいるのも事実だし、それに応えられる占い師がいることも知っています。私はただ、自分がどういう占い師であるかということを、15年かけて少しずつ明確にしてきた。その結果として、「カウンセリングじゃないですか」と言われるような鑑定スタイルになっているのだと思っています。
「あなたの仕事はなんですか」と問われたなら
あの春の午後に戻ります。「それ、カウンセリングじゃないですか?」と言ったお客さまは、帰り際にこうもおっしゃいました。「でも占いって書いてあったから来られたんです。カウンセリングって書いてあったら、きっと来ていなかった」と。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが落ちた気がしました。
「占い」という入口があるからこそ、来られる人がいる。「星が教えてくれる」「カードが示す」というフレームがあるからこそ、「自分を見つめることへの抵抗」が和らぐ。占いには、そういう機能がある。これは他の何とも代替できない、固有の価値だと改めて感じました。
心理カウンセリングは素晴らしい職能です。でも、「カウンセラーに行く」という決断には、ある種のハードルがある。「自分はそこまで問題を抱えているわけじゃない」「プロに話すほどの話でもない」という気持ちが邪魔をする。占い師のところへは、「ちょっと聞いてみようか」という軽やかさで来られる。その軽やかさが、時に深いところまで連れて行ってしまう。
私の仕事は何かと聞かれたら、今はこう答えます。「星とカードを使って、その人が自分自身に出会う時間を作ること」と。予言でもなく、療法でもなく、その中間にある何か独自のもの。それを占いと呼ぶのか別の言葉で呼ぶのかは、まだ迷っています。でもその迷いごと、私の仕事の誠実さだと思って、今も抱えています。
ヘアメイクの仕事でも似たことを感じます。メイクをしながら「なんだか鏡を見るのが好きじゃなくて」とおっしゃるお客さまが、セッションを終えた後に鏡の前でしばらく自分を見ている。その沈黙の中には、確実に何かがある。言葉にならないものが、鏡の前に立った時間の中で動いている。
占いもメイクも、ライティングも、私がやっていることは全部「その人が自分を見るための道を整える」ことかもしれない。職種が違っても、根っこはずっと同じだったんだと、今は思っています。
問いそのものが、答えだということ
「これって占いじゃなくてカウンセリングですよね」という問いに、私は今でも明確な答えを持っていません。
占いとカウンセリングの境界線を引こうとすることより、「その鑑定がその人の役に立ったかどうか」の方がずっと大事だと、実際の現場では感じています。境界線の議論は、外から見ている人のための話であって、鑑定室の中にいる私とお客さまにとっては、関係のないことです。
でも、一点だけ私が大切にしていることがあります。それは「私は占い師だ」という自覚を、ぶれさせないこと。カウンセラーの真似事をしようとした瞬間に、私は何者でもなくなってしまう。星とカードを使って、占い師として向き合うからこそ、その場にしか生まれない何かがある。占い師という立場に立ち続けることが、実はお客さまへの最大の誠実さだと思っています。
あの春のお客さまは、今も定期的にいらっしゃいます。最近は「彼との関係」の話ではなく、「自分がどう生きたいか」という問いを持って来るようになりました。鑑定の中身が変わったというより、彼女が持ち込む問いが育ったのです。
その変化を見るたびに、私はこの仕事をしていてよかったと思う。予言が当たったからではなく、その人の問いが深くなったから。それがカウンセリングなのか占いなのかという分類より、もっと手前のところで、何かが動いた。
あなたが誰かに「これ、占いじゃないですよね」と言いたくなる時、その感覚の正体に、少し立ち止まってみてください。
「占い師らしくない」と言われ続けた、キャリアの最初期
今でこそ自分のスタイルを言語化できるようになりましたが、キャリアの最初の数年間は、とにかく「占い師らしくない」という言葉に悩まされていました。
当時の私は、まだ20代後半。占星術を学び始めて数年が経ち、タロットの読み方もある程度身についていた。でも先輩の占い師たちのスタイルを見ると、どうしても自分とは違う気がしていた。神秘的な語り口、断言するような口調、「あなたはこうなります」という力強い言葉。私にはそれがどうしても出てこなかった。
あるイベントでの出来事を今も覚えています。複数の占い師が並んで鑑定するブース形式の催し物でした。私の隣に座っていたベテランの占い師が、次々とお客さまに「断言」していくのを横目で見ながら、私は自分がひどく頼りなく見えるだろうなと思っていた。私のブースではお客さまとの会話が長くなり、笑いが起きたり、時に静かな沈黙が流れたりしていた。
イベントが終わった後、主催者から「レイラさんのところは会話が長すぎて回転率が悪い」と指摘されました。確かにその通りでした。でも同時に、私のブースに座ったお客さまのほとんどが帰り際に振り返って「ありがとうございました」とおっしゃっていた。その言葉の重みが、回転率という指摘と天秤にかかって、ずっと揺れていました。
あの夜、帰りの電車の中でノートを開いて、「自分は占いで何をしたいのか」と書いた記憶があります。答えは出なかったけれど、問いを書いたこと自体が、その後の15年の出発点になったような気がしています。
言葉を持たない人に、言葉を渡す仕事
私が鑑定の中で最も集中しているのは、実はお客さまの「言葉にならない部分」を拾うことです。
言葉が巧みな人ほど、本当のことを隠せます。論理的に整理された「悩みの説明」を聞いていると、その裏にある「説明できない感覚」がかすんでしまうことがある。占い師として長く座っていると、「言葉とは別の何か」がその場に漂っているのを感じる瞬間があります。それをどう拾うか。私がタロットを使う大きな理由のひとつが、ここにあります。
言葉では「問題は仕事のことだけです」とおっしゃっているお客さまが、「家族」を示すカードが出た瞬間に表情が変わる。それを私は無視できない。「このカード、今の状況と関係がありそうですか?」とそっと問いかけると、しばらく沈黙があって、「実は母のことが……」と始まることがあります。
そういう瞬間に、私はカードに感謝します。私が「お母さんのことはどうですか?」と正面から聞いたら、壁を感じさせてしまう。でもカードが先に示したことで、お客さまは自分で扉を開ける選択ができる。強制ではなく、カードが「ここにあるよ」と光を当てるだけ。そこから先はお客さまが自分で歩くのです。
この構造は、やはり一般的なカウンセリングとは異なると思います。セラピーでは「クライアントが話したいことを話す」という原則があります。でも占いでは、カードや星が「クライアントが気づいていないことにも光を当てる」可能性がある。これは時として非常にデリケートな操作です。だからこそ、占い師には「どこまで踏み込むか」の判断が常に求められる。私はその判断を誤らないために、今も毎回の鑑定の後に自分の関わり方を静かに振り返るようにしています。
それでも私が「占い師」である理由
最後に、この問いに正面から向き合って締めくくりたいと思います。
「占いじゃなくてカウンセリングでは?」という問いに対して、私が今持っている答えはこうです。どちらでもあって、どちらでもない。でもあえてひとつ選ぶなら、私は「占い師」です。そして、それは誇りを持って言えることだと今は思っています。
占い師という存在は、とかく軽く見られがちです。「当たる・当たらない」で評価され、エンターテインメントと学問の狭間に置かれ、専門職としての地位が曖昧なまま社会に存在している。でも私はこの15年で、占いという行為が持つ固有の力を何度も目撃してきました。誰かが深夜に涙しながら引いたカードが、翌朝の行動を変えた。ホロスコープの一点を示した言葉が、10年越しの自己否定を溶かした。そういう瞬間は、確かにあるのです。
先日、長年お付き合いのある企業の経営者の方から「うちの会社に顧問として関わってほしい」とご相談をいただいた時、私は少し迷いました。経営コンサルタントでもない、心理士でもない私が、企業という場に何を提供できるのかと。でもその方はこうおっしゃいました。「レイラさんは人を見る。その視点が欲しい」と。
星とカードを使って人を見る。その「見る」という行為の中に、私の全キャリアが詰まっているのだと、その時改めて思いました。タロット占い師として、占星術師として、ヘアメイクアーティストとして、ライターとして、私がずっとやってきたことは「人を見て、その人が自分を見るための場を作ること」だった。
職種の名前は何でもいい。でも「占い師」という看板を掲げることで、あの春のお客さまのように「カウンセリングとは思っていなかったから来られた」人が扉を開けてくれる。その入口の意味を、私はこれからも大切にしていきたいと思っています。
カウンセリングか占いか、という問いは今も続いています。でもその問いを持ちながら鑑定室に座り続けることが、私を正直な占い師でいさせてくれているのかもしれない。分類できないものの中に座り続ける、その居心地の悪さごと、私の仕事なのだと今は思っています。
あなたが「これは何の仕事なんだろう」と感じた時、もしかするとそれは、仕事が本物になり始めているサインかもしれません。
鑑定室を出た後に、お客さまが見せる顔
アトリエヴァリーの鑑定室を出たところに、小さな待合スペースがあります。そこで次のお客さまとすれ違う瞬間に、私はそっと観察していることがあります。鑑定を終えたお客さまの、廊下を歩く背中です。
不思議なことに、鑑定の内容が「良い話」だったかどうかと、その背中の様子は必ずしも一致しません。厳しいことをお伝えした回でも、背筋がすっと伸びて出ていかれる方がいる。逆に「順調ですよ」という内容の回でも、どこか消化しきれない様子で帰られる方もいる。
あの背中の違いは何なのだろうと、長い間考えてきました。今の私の解釈はこうです。「自分の中にあるものに触れられたかどうか」が、あの背中に出るのだと。言葉として受け取った情報量ではなく、自分自身と何かが接続した感覚があったかどうか。それが、鑑定室を出た後の人の姿勢を変える。
占いとカウンセリングのどちらであれ、その接続が起きた時間は本物だったということです。背中が教えてくれることを、私はこれからも見続けていくつもりです。
