初心者が最初に買うべきデッキを、あえて教えない理由。

「初心者におすすめのデッキを教えてください」という質問は、15年間で何百回と受けてきた。メッセージボックスに届く、コメント欄に書かれる、対面でも聞かれる。そのたびに私は少し考えてから「あえて答えない」という選択をしている。意地悪で言っているわけじゃない。本当に大切なことを教えたいから、あえて教えないのだ。今日はその理由を、きちんと言語化してみようと思う。

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「正解のデッキ」を探している時点で、すでに迷子になっている

タロットを始めようとしている人が「おすすめデッキ」を聞いてくる時、その人は何を求めているんだろうと、私はいつも考える。
失敗したくない、という気持ちは分かる。お金を無駄にしたくない、変なものを掴みたくない。でもその「失敗したくない」という感覚そのものが、実はタロットと根本的に相性が悪い。

タロットというのは、どこかで「間違えていい場所に自分を置く」ことで機能するものだと私は思っている。占いというフィールドで長く生きてきて確信したのは、正解を求めて入ってきた人ほど、最初の一枚目が引けない、ということだ。カードを引くのが怖くなる。出た答えを否定し始める。「これって本当にこういう意味ですか?」と確認する作業が終わらなくなる。

何年か前に、すごく頭のいい女性のクライアントさんがいた。職業は研究者で、物事を論理的に積み上げていくことが得意な人。彼女はタロットを独学で始めようとして、最初の三ヶ月間、デッキを買うことができなかったと言っていた。「どのデッキが一番正確なんですか」「絵のタッチで意味が変わりますか」「ウェイト版とマルセイユ版、どちらが本来のタロットですか」。その質問を繰り返しながら、ネットで調べ、比較し、また迷って。結局買ったのはレビュー数が一番多かったデッキで、手に取った瞬間「なんかピンとこない」と思ったそうだ。

その感覚、すごく正直だと思う。正確に言えば、彼女は「自分の感覚より他人の評価を選んだ」ことに、身体が反応したのだと思う。

デッキに「正解」はない。あるのは「あなたとの相性」だけだ。それを最初から理解しないまま「おすすめを教えてください」と聞いても、私が答えを出す意味がない。意味がないどころか、有害になりうる。私の好みを押しつけることで、その人がもし出会えたはずのデッキとの縁を断ち切ってしまうかもしれない。

私が最初に使ったデッキの話をしよう

私がタロットを本格的に始めたのは20代の前半だった。その頃の私はヘアメイクアーティストとしてのキャリアを歩み始めたばかりで、現場の先輩に連れて行かれた占い師のところで「あなた、霊感があるわね」と言われたのが最初のきっかけだった。

そこから自分でも学んでみたくなって、最初に手に取ったのは、ブックオフで見つけた古いウェイト版だった。誰かが使って手放したカード。箱のふたは少し歪んでいて、数枚のカードに微妙な折れ癖がついていた。値段は確か200円か300円くらいだったと思う。

それが私の最初のデッキだ。

「初心者向けじゃない」「新品を使うべき」「他人が使ったカードは良くない」という意見は後から何度も聞いた。でも私はそのボロボロのデッキで3年間学び続けた。折れ癖があるカードは触るだけでどのカードか分かるようになった。絵の色褪せ方で見慣れたカードが増えていった。誰かの念が混じっているかもしれないカードを使うことで、むしろ私は「カードは媒介であって、力は自分の内側にある」ということを体で理解した。

もし当時の私が「初心者は何を買えばいいですか」と先輩占い師に聞いていたら、そのブックオフのデッキには辿り着かなかった。誰かが推薦した、綺麗な新品のデッキを渋谷か新宿のオカルトショップで買っていたと思う。それはそれで悪くはなかっただろうけれど、私の学びの質は変わっていたはずだ。

あの安くてボロいデッキが、私の最初のデッキで良かった。心の底からそう思っている。

「選ぶ力」そのものをトレーニングする、という考え方

占いというのは突き詰めると、「直感を言語化するトレーニング」だと私は考えている。カードを引いて意味を読む、星の配置を解釈する、その行為の本質は「自分の感覚を信頼して、それを言葉にする」ことだ。

ということは、最初のデッキを選ぶ行為自体が、すでにトレーニングの一部なんだよ。

私に「おすすめを教えてください」と聞く人のほとんどは、デッキ選びを「前置き」だと思っている。タロットを学ぶ本番の前の、準備作業だと思っている。違う。あの選択の瞬間から、もう始まっているんだ。

いくつかのデッキを手に取って、「なんかこれ好きかも」と思う感覚。画像検索していて「このイラストずっと見ていたい」と感じる感覚。あるいはレビューでは評判が良いのに「なぜかしっくりこない」という感覚。その感覚全部が、あなたの直感の声だ。

初心者に「おすすめを教えてください」と言われるたびに、私は内心でこう思う。あなたが今まさにやろうとしている練習問題を、私が解いてどうするんだ、と。

ピアノを習い始める時に「先生、私に向いている曲を教えてください」と言う人は少ない。でもタロットになると、なぜか「正解」を外部に求める人が増える。それはタロットが「当てるもの」「正確なものがある」という前提で語られがちだからだと思う。でも実際は違う。タロットは楽器に近い。弾き手によって音が変わる。デッキは楽器の種類みたいなもので、ピアノが好きな人もギターが好きな人もいる。向き不向きも、感覚もある。それを私が「あなたにはこれ」と決める権限は、私にはない。

私が「あえて答えない」と決めた、ある日の鑑定室での出来事

これは数年前の話だ。

当時、タロットを学びたいという30代の女性のクライアントさんが何度かアトリエに来ていた。鑑定の合間に「どのデッキを買えばいいですか」と聞かれて、その時の私はまだ今ほど意識が整理されていなかったから、「ウェイト版のライダー版が一番学びやすいですよ」と答えた。

翌月また来た彼女は、確かにそのデッキを買ったと言っていた。でも「なんか使いこなせなくて」と言う。絵のタッチが苦手なんですよね、と。「どうしてもカードを手に取る気持ちになれなくて、棚に飾ってある」と。

その話を聞いた時に、私はかなりドキッとした。私のアドバイスで、彼女はタロットから遠ざかったのだ。

彼女が自分で選んでいたら、どうなっていたか。もしかしたら、ファンタジー系の繊細なイラストのデッキを手に取っていたかもしれない。あるいは水彩タッチの温かいデッキを。そこで「あ、これ好き」という感覚が生まれていたら、棚に飾られることなく毎日触っていたかもしれない。

その出来事があってから、私は「おすすめデッキを教えて」という質問には、あえて答えないことにした。「好きな絵のものを選んでください」とだけ伝えるようにした。追加で聞かれても、そこからは動かない。なぜなら私が動くことで、その人の大事な選択の機会を奪ってしまうから。

占いを生業にして15年。地上波のテレビに出たこともある。企業の顧問をしていたこともある。それだけのキャリアを積んできたけれど、「自分が知っていること」を人に全部教えることが良いことだとは、もう思っていない。

「絵が好き」という基準だけが、本当の出発点になる

デッキを選ぶ基準について言えば、私が唯一「これだけは意識して」と伝えていることがある。それは「絵を見て好きだと思えるかどうか」だ。

学びやすさとか、カード枚数とか、日本語解説書付きかどうかとか、そういう実用的な基準は後でいい。まず「この絵、好きだな」という感覚が先にある。それだけでいい。

なぜかというと、タロットを本気で学ぼうとしたら、同じカードを何百回、何千回と見ることになるから。78枚のカードを、繰り返し繰り返し見続ける。その時に、「絵がピンと来ない」状態で続けるのは、本当にしんどい。一方で「この絵ずっと見ていたい」と思えるデッキなら、見るたびに発見がある。同じカードでも、その日の光の具合や自分の状態によって、違うものが見えてくる。

タロットの学びって、実はそこなんだよ。「この絵に今日はなぜか目が止まった」「いつもはこの部分が気になるのに、今日はあっちが気になる」。そういう微細な感覚の変化を積み重ねていくことで、自分の感度が上がっていく。

その感覚のトレーニングが、「美しいと思える絵」「見飽きない絵」を前にした時にしか起こらない。

だから私は言い続ける。スペックより感覚を信じろ、と。学びやすいとされているデッキより、あなたの目が止まったデッキを選べ、と。

ある時、占星術の勉強会に来ていた学生さんが、アニメーションタッチの、一見して「占い向きじゃない」と思われそうなデッキを持ってきた。周りから「それで本当に読めるの?」と言われたそうだ。でもその子は毎日そのデッキを触っていた。通学電車の中でカードを眺めながら、何かを感じる練習をしていた。半年後に見せてもらったその子の解釈は、驚くほど豊かだった。絵の好みと向き合う時間が、そのまま直感の訓練になっていたのだと思う。

「教えない」というのは、信頼の表現だ

誤解を恐れずに言う。

「おすすめを教えない」のは、意地悪でも、出し惜しみでもない。あなたを信頼しているからだ。

私はずっとこの仕事をしてきて、人が「自分で選んだもの」にどれだけ愛着と責任を持つかを見てきた。占いの話だけじゃない。ヘアメイクの仕事をしていても同じだった。「どんな髪型にしたいですか」と聞いて、お客さんが「おまかせで」と言う時と、「この写真みたいにしたい」と言う時では、仕上がりへの満足度が違う。おまかせにした人は、何か一つ気に入らない部分があると「そこが嫌だった」となる。自分で選んだ人は、多少うまくいかない部分があっても「自分で選んだから」という納得感がある。

デッキも全く同じだ。自分で選んだデッキなら、「なんかしっくりこないな」という日も、「私が選んだんだから、使いこなせるようになろう」と続けられる。でも誰かに「これがいいよ」と言われて買ったデッキで何かあった時、その人は「そもそもおすすめが合ってなかったのかも」と外に原因を求めてしまう。

これは人間の自然な心理で、どちらが良い悪いじゃない。ただ、占いを学ぶ上では「自分で選んだ」という出発点が、後々のしなやかさに繋がる。行き詰まった時に自分の内側を見られるか、外に答えを探しに行くか。その差が積み重なると、半年後・一年後に大きな違いになって出てくる。

だから私は答えない。答えないことで、あなたの自分への信頼を守ろうとしている。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、本気でそう思っている。

「迷う時間」に意味がある、という話

デッキを選ぶ時に「迷う」という体験をする人は多い。そしてその迷いをなくしたくて、誰かに聞く。

でも私は思う。その迷いの時間こそが、タロット学習の序章だ、と。

どのデッキが気になるのか。どの画像に目が止まるのか。なぜこれはピンと来ないのか。その問いと向き合う時間は、自分の好みや感覚を「観察する」トレーニングそのものだ。タロットを引いた後に「このカードは私に何を伝えているのか」と問う行為と、構造が同じなんだよ。

占いは突き詰めると、「問い続けること」だと私は思っている。答えを出すことが目的じゃなくて、問い続けることで内側が動く。その動きを感じ取る感度が、占い師の力の源泉だ。

デッキを選ぶ迷いの中に、その感度の種がある。だから私は「早く決めなきゃ」という焦りを持って来た人に、「迷っていいよ」と言うことにしている。一週間迷っても、一ヶ月迷っても、それはロスタイムじゃない。すでに学びが始まっている。

以前、私のブログを読んでくれている方が「半年間デッキを選べなかった」と話してくれた。いくつかのデッキの画像を印刷して、壁に貼って毎日眺めていたそうだ。そして半年後に「やっぱりこれだ」と思ったデッキを手に取った時の感覚は、「友達に再会したみたいだった」と言っていた。

半年間、壁の前で迷いながら過ごした時間が、その人の直感をすでに育てていた。デッキを手に取る前から、もうタロットと付き合い始めていたんだと思う。それは誰かに「これがいい」と言われて翌日ポチッとしていたら、絶対に体験できなかったことだ。

占星術師として、もう一つ言いたいこと

タロットとは少し話が逸れるけれど、同じことが西洋占星術の学びにも言える。「何から勉強すればいいですか」「おすすめのテキストは何ですか」という質問を、これも何百回と受けてきた。

占星術の場合は多少答えやすくて、いくつかの定番テキストはある。でも「その本を読んで分からなかったら次はこれ」という流れを細かく指定することは、私はしない。なぜかというと、「分からなかった体験」自体が、学びの素材になるからだ。

あるテキストを読んで「ここが分からなかった」という体験は、次に読むテキストで「ああ、さっきのはこういうことだったのか」という発見に変わる。その「発見した」という感覚は、最初から分かりやすいテキストだけを順番に読んでいた人には生まれない。

学びというのは、つまずいて、引っかかって、腑に落ちて、また引っかかる、その繰り返しで深まるものだと私は信じている。

占いを教える立場になって、一番難しいと感じることが「教えすぎないこと」だ。知っていることを全部伝えたい気持ちはある。でもそれをすることで、相手の「引っかかる体験」を奪ってしまうことになる。

15年間、占い師として、ヘアメイクアーティストとして、ライターとして生きてきて、「引っかかった体験」が一番身になると分かった。スムーズに進んだ経験より、どこかで詰まって、もがいて、突破した経験の方が、自分の血と肉になっている。

タロットのデッキ選びも、そのもがきの第一歩だ。その一歩を私が奪うわけにはいかない。

それでも聞いてくる人へ、私が唯一言うこと

「おすすめを教えてください」という質問に答えない、と書いてきた。でも本当に何も言わないわけじゃない。

一つだけ言うことがある。それは「実物を見て選んでほしい」ということだ。

ネット通販で画像を見て決めることもできる。でもできれば、カードを手に取れる店に行って、実際に箱を持ってみてほしい。重さを感じてほしい。カードの質感に触れてほしい。パラパラとめくってみてほしい。

私がかつてブックオフで出会ったあのデッキは、手に取った瞬間に「なんかこれだな」と思った。それは直感だったと今は言えるけど、当時の私には理由なんて説明できなかった。ただ、手に取った感触が「しっくりきた」だけだ。

その「しっくりくる」という感覚は、画面越しでは生まれにくい。

東京近辺なら、タロットや占い道具を扱う専門店がいくつかある。ちょっと遠くても行く価値がある。なぜなら「デッキを選びに出かける」という行為自体が、自分の学びへの覚悟を確認する儀式になるから。電車に乗って、お店に入って、棚の前で迷って、最終的に一つを選んで帰る。その一連の体験が、タロット学習の最初のページに刻まれる。

通販で翌日届くのとは、重さが違う。

それから、もう一つだけ言うとすれば、最初のデッキは「一生使い続けるもの」を選ばなくていい、ということだ。変わっていい。二枚目、三枚目と増えていく中で、気づいたら最初のデッキに戻ることもある。デッキとの関係も、人間関係と似ている。最初は距離感が分からなくても、付き合ううちに深まっていく。あるいは合わないと分かって手放す。それも全部、学びだ。

「これが最初のデッキでないといけない」という正解は、どこにも存在しない。

最後に、私がこのエッセイを書いた本当の理由

今日のエッセイを書きながら、自分でも整理できてきたことがある。

「おすすめデッキを教えない」というのは、実は私が占いというものをどう捉えているかの、表れだということだ。

占いは「当てるもの」でも「正解を知るもの」でもないと思っている。占いは「自分の感覚を信頼する練習」だと思っている。その練習を、デッキを選ぶ瞬間から始めてほしい。その入口を、私が埋めてしまわないようにしたい。それが私のスタンスだ。

アトリエヴァリーに来てくれるクライアントさんたちを見ていると、長く占いと付き合っている人ほど「自分の感覚を信じることができる人」が多い。逆に言えば、占いを長く学んでいても「自分の感覚を信じられない人」は、どこかでその出発点を誰かに委ねてしまった人が多い。

始まりは大事なんだ。

最初の一歩をどう踏み出したか、が、その後の歩き方に影響する。タロットを学び始める出発点で「自分で選んだ」という体験を持っている人と、「誰かに教えてもらった」という体験を持っている人では、行き詰まった時の対処が違ってくる。前者は自分の内側に問いかけ、後者はまた誰かに聞きに行く。

もちろん、誰かに聞くことが悪いわけじゃない。でも「最初」のその選択だけは、自分でしてほしいと思っている。

「初心者が最初に買うべきデッキを、あえて教えない」のは、あなたにとってのタロットを、あなた自身が作っていくための余白を、残したいからだ。

その余白に何が育つかを、私はむしろ楽しみにしている。

あなたが選んだデッキと、あなたが過ごした時間が、いつかどんな読みを生み出すのか。それを見届けることの方が、私には大切なことだ。

「おすすめ」を求めてこのエッセイを読んだあなたが、最後まで読んで気づいたことがあるとしたら、それはもうすでに、タロットと付き合う準備ができているということだと思う。

自分で気づけた人には、もう「おすすめ」は要らない。

「教える」と「伝える」は、まったく別の行為だということ

占いを教える仕事をしていると、この二つの違いについて何度も考えさせられる。

「教える」というのは、情報を渡すことだ。「これが正しい」「こうするといい」という形で、答えを手渡す行為。一方で「伝える」というのは、その人の中に何かが芽生えるきっかけを作ることだと私は思っている。種を置く、くらいのイメージ。育てるのは相手自身で、私はただ土の前に立っているだけ。

デッキのおすすめを聞かれて答えることは、「教える」行為だ。答えを渡してしまう。でも「絵が好きなものを選んでみて」と言うことは、「伝える」行為だ。方向だけ示して、あとは本人に委ねる。

私はライターとしても長く文章を書いてきたから、この感覚はすごくリアルに分かる。読者に「こう感じてください」と書いた文章は、読まれた瞬間に死ぬ。でも「あなたはどう思いますか」という余白を持った文章は、読んだ人の中で何かが動き続ける。占いの言葉も同じで、「あなたのこれからはこうなります」と断言する鑑定より、「今のあなたの中にある、この感覚に気づいてみてください」という鑑定の方が、クライアントさんの人生に長く残ると感じている。

ある時、鑑定から数年経ったクライアントさんが連絡をくれた。「あの時レイラさんに言ってもらった一言が、ずっと残っています」と言うのだけれど、正直、私にはその言葉の記憶がなかった。私が断言した言葉ではなくて、「ここはどう思いますか?」と問いかけた言葉だったようだ。その問いに、自分で答えを出したことが、ずっと自分の軸になっていると言ってくれた。

教えすぎた言葉は忘れられる。伝わった言葉は、その人のものになる。

デッキ選びも全く同じ構造だ。「ライダーウェイト版がいい」と私が言って買ったデッキは「レイラさんにおすすめされたデッキ」として存在し続ける。でも自分で選んだデッキは「私のデッキ」になる。その所有感と愛着の差が、学びの深さに直結していく。

デッキは「出会う」ものだ、という感覚について

これは少し感覚的な話になるけれど、長くタロットと付き合ってきた人間として言わせてほしい。

デッキというのは「選ぶ」というより「出会う」ものだと思っている。

私が今一番よく使っているデッキは、パリの小さな雑貨屋で見つけたものだ。目的は全然別で、そのお店に入ったのも気まぐれだった。棚の隅に、他の雑貨に埋もれるようにしてあったカードの箱。表紙の絵が目に入った瞬間、足が止まった。フランス語のカード名が読めなかったけど、その絵の世界観に引き込まれて、気づいたら手に取っていた。値段を確認して、迷う間もなく買っていた。

そのデッキは今も私のお気に入りで、特に複雑なスプレッドを切る時に使っている。でもあれは「おすすめを調べて選んだ」ものじゃない。向こうから来た、という感覚の方が近い。

占いをしていると、こういう「向こうから来る」体験をする人は多い。「なんとなく気になった」「目が離せなかった」「理由はないけど手が伸びた」。そういう体験の中にこそ、そのデッキとの縁がある。

縁を手繰り寄せるのは本人の感覚だ。私がいくら「このデッキがいい」と言っても、その縁は作れない。縁は検索結果には乗っていない。誰かのレビューの中にもない。あなたが棚の前に立った時、あなたの視線が止まった場所に、あるかもしれない。

「デッキに呼ばれる」という言い方をオカルト的に嫌う人もいる。分かる。でも「なぜか気になる」という感覚は実在する。そしてその感覚は、論理より先に来ることがある。その「論理より先に来る感覚」を大事にすること自体が、タロットの練習だ。だから私は、その感覚をあなたに経験してほしいと思っている。私がデッキを指定することで、その機会を潰したくない。

初心者という言葉に潜んでいる、小さな罠

最後にもう一つ、ずっと気になっていることを書かせてほしい。

「初心者向けのデッキ」という概念そのものが、私はちょっと好きじゃない。

「初心者向け」というラベルは、「上級者向けとは別のものがある」という前提を作る。それがいつの間にか「初心者の間は、これだけ使っていなさい」という制限のように機能してしまう。でもタロットに、そんなヒエラルキーはあってもなくていいものだと思っている。

絵が難解とされているデッキでも、「好き」という感覚があれば初心者が使っていい。象徴や絵の意味が複雑で「上級者向け」と言われているデッキでも、その絵と向き合うことで得られる学びがある。むしろ「難しい」と言われているものを好奇心で手に取った時の、分からないながらも向き合い続ける体験が、その人にとっての一番の先生になることがある。

「初心者向け」というカテゴリは、初心者を守るためのものじゃなくて、安心させるためのラベルだ。安心は大切だけれど、それが「とりあえずここに収まっていなさい」という場所の指定になっていたら、少し窮屈だと思う。

私は15年間、「初心者だから」という理由で誰かの可能性を小さく見積もったことがない。むしろ始まったばかりの人の方が、固定観念がない分、ダイレクトに感覚と向き合えることが多い。長くやっている人間の方が「こういうカードだから、こう読む」という先入観に縛られて、感覚を閉じてしまうことがある。

初心者に「初心者向けのデッキ」を渡すことは、ある意味で「あなたはまだここにいていい」という場所の限定だ。それより私は「あなたが気になったデッキから始めていい」と言いたい。その言葉の方が、よほど相手の可能性を信じている。

タロットを手に取る最初の瞬間から、あなたはもう占い師として始まっている。初心者という仮の名前を早く脱いで、「タロットと向き合っている人間」として自分を見てほしい。そのためにも、最初のデッキは誰かの答えからではなく、あなた自身の感覚から始まってほしいと思う。

今日も「おすすめデッキを教えてください」というメッセージが、どこかから届いているかもしれない。私の答えは変わらない。でもこのエッセイを読んだあなたは、もうその質問を私に送る必要がなくなっているはずだ。

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